藤井松林(1824-1894)は、福山藩士の子として福山城下長者町に生まれ、幼ないころから画才を発揮、14歳で福山藩から絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢や吉田東里に画の手ほどきを受けた。のちに京都に出て円山派の中島来章に師事し、福山に戻ってからは阿部正弘の御絵師となり、奥坊主、奥坊主頭、茶道兼役見習などを経て勘定所詰兼御絵師となった。廃藩後も内国勧業博覧会などで名声を得た。若林松谿、羽田桂舟、水野文華、河合文林、藤井松山ら多くの門人がいる。
藤井松林(1824-1894)
文政7年福山城下長者町生まれ。福山藩士。幼名は小助、のちに好文。字は士郁。別号に清遠、百斎がある。福山藩に絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢、吉田東里に手ほどきを受け、のちに京都に出て中島来章の門に入り円山派を学んだ。慶応元年帰藩し勘定所假役、絵師兼役を勤め、円山四条派の画人として多くの優品を残した。廃藩後も明治10年内国勧業博覧会で作品が認められ宮内省にも献納しその名を高めた。明治26年、70歳で死去した。
若林松谿(1858-1938)
安政5年福山城下東町生まれ。旧名は岡本松溪。はじめ地元の藤井松林に学び、のちに京都で鈴木松年の門に入った。大阪に住み、画壇の元老として活躍、大阪絵画会幹事、浪花絵画競技会顧問もつとめた。昭和13年、81歳で死去した。
羽田桂舟(1864-1939)
元治元年福山胡町生まれ。名は英松。大分県竹田の南画家・渕野桂僊が福山に在住中に学び、のちに藤井松林に師事した。さらに大阪に行き、京都の鈴木松年にも学び、花鳥画を得意とした。四条派の中川蘆月とも交遊した。明治42年に福山に戻った。昭和14年、76歳で死去した。
下宮竹邨(不明-不明)
名は源五、藩士・下宮祐来の長男。別号に青柳堂がある。藤井松林に学び、のちに長崎で油絵を学んだ。一時期大阪に出てのちに福山に戻り霞町に住んでいたが、尾道に移り住み信明と改名した。明治中期に病死した。
水野文華(1870-1917)
明治3年福山生まれ。妙蓮寺第一世・水野大胤の二男。諱は哲譲。別号に松嶺がある。幼いころに藤井松林の手ほどきを受け、松林没後は諸国を漫遊し、京都でも学んだ。明治36年福山に戻った。大正6年、48歳で死去した。
藤井松山(1880-1967)
明治13年桶屋町生まれ。幼いころに藤井松林に手ほどきを受け、明治32年誠之館中学校を卒業し、翌年京都の鈴木松年の門に入った。大正2年、藤井松林20周年追薦会・遺墨展を羽田桂舟、若林松谿、水野文華らと開催した。昭和9年京都から福島に戻った。昭和42年、88歳で死去した。
広島(6)-画人伝・INDEX
文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展