渡辺崋山以降、南画一色となった東三河地方で、狩野派を学んだ異色の存在として、加藤元白がいる。元白は砥鹿神社南部に位置する八名郡橋尾村に生まれ、京都に出て狩野派に学び、京都画壇で未来を嘱望されながらも、家庭の事情で帰郷、団体に属さず、各種コンクールなどにも積極的に出品しなかったため残された記録は少ない。
白井烟嵓も著書『東三河画人伝』の中で「八名郡出身の加藤綜猿元白という狩野派の画家が活躍していることをうかがった」とその存在を気にかけ、「曾孫の白井政義君が、極力遺墨の収集と遺墨画集の製作に努力しておられる」とその成果を期待していた。
その研究の成果として、平成4年に刊行された『定本・東三河の美術』に白井政義が加藤元白の詳細を掲載している。また、平成24年には桜ヶ丘ミュージアムで開催された「とよかわの美術家たち」に加藤元白の作品が出品され、展覧会図録には「画は動きのある人物と対比させた水墨の山水画などを得意とした。大胆な筆使いと繊細な描写で、墨の濃淡によるダイナミズムなど対照的構図が多くみられ、優れた技量がうかがえる」と評されている。
加藤元白(1825-1910)かとう・げんぱく
文政8年八名郡橋尾村生まれ。加藤政五郎の長男。政五郎は名字帯刀を許された助郷総代を務めた大庄屋。名は椋猿、別号に光宜がある。弘化2年より8年間、狩野派の画人・桜斉広元に学び、若き日には京都の御所に招かれたという。画家としての能力は高く、狩野派の逸材として知られたが、親の賛同を得られず、京都画壇で活躍することなく帰郷、遠州三ケ日の森田美江を妻に迎え、二男五女をもうけた。
長男の虎次郎が東京で加藤運送店を開業させたため、元白も晩年は東京で暮らし、明治43年、85歳で死去した。長男が写真嫌いで酒好きの元白を東京上野に誘い出し、途中の日本橋の写真館で無理やり写真を撮ったため、2週間後に亡くなったという逸話がある。作品は出身地である橋尾町の東光寺、本宮山松源院に残っている。
東三河(9)-画人伝・INDEX
文献:東三河画人伝、とよかわの美術家たち