南画家・岸浪柳渓の二男として館林に生まれた岸浪百艸居(1889-1952)は、3歳の時に両親の離婚により父柳渓とともに金沢に移り住んだ。金沢では伯母夫妻に預けられていたが、7歳の時に伯父が没したため父の元に引き取られた。
小学校卒業後、寺院の師弟、呉服店見習いなどをしていたが、16歳の時に画家になることを決意し、父柳渓と田崎草雲のところで同門だった同じ館林出身の小室翠雲に入門した。大正7年、第12回文展に初入選、以後、文展、帝展をはじめ、日本南画院展などに出品した。
当初は伝統的な南画を基盤とした画風だったが、写生を通して自然と接するうちに次第に魚類に興味を持ちはじめ、魚類画に百艸居独自の世界を切り拓いていった。
百艸居の画風の形成には、画友・小杉放菴の存在も大きかった。放菴とは、芥川龍之介を通じて知り合い、ともに芭蕉の『奥の細道』をたどる旅に出かけるなど、たびたび各地の写生旅行をともにした。また、放菴の影響で和歌や俳諧もたしなむようになった。
魚類を写生するうちに、魚の生態や分布も研究するようになり、さらに料理法や趣味を通した人間と魚との関わりまで極め、随筆『魚に會う』『画魚談叢』など、魚類に関する多くの著書を出版した。
最晩年の昭和26年には、眼の病にかかりながらも昭和天皇に献上するため「魚類図鑑」の制作をはじめた。当初は海魚と淡水魚を2巻にして献上する予定だったが、病のため先に完成した「海魚の部」1巻のみを献上し、その後病が癒えることなく没したため、「淡水魚の部」は未完のまま終わった。
岸浪百艸居(1889-1952)きしなみ・ひゃくそうきょ
明治22年館林生まれ。岸浪柳渓の二男。本名は定司。初号は静山。明治38年小室翠雲に学び「静山」と号し、翌年日本美術協会に出品し3等褒状を受けた。大正7年第12回文展で初入選。大正12年関東大震災のため東京世田谷区松原に転居し、昭和6年よりその庭園の名にちなんで号を「百艸居」に改めた。その間、帝展、日本南画院展を主な舞台として作品を発表した。昭和4年には欧米諸国を歴訪し、フランス巴里展にも作品を出品、日本橋三越などで6回ほど個展を開催した。昭和8年に日本南画院同人となり、南画の普及と改革につとめ、『日本南画実習帖』や『是れからの日本南画』などの著作を出版するほか『魚に合ふ』『画魚談叢』など魚類に関する著作も多数出版した。昭和27年、64歳で死去した。
群馬(19)-画人伝・INDEX
文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、上毛南画史、郷土の芸術家たち、りょうもうの美術館名品展、群馬県人名大事典