新井洞巌(1866-1948)は、群馬県吾妻郡原町(現在の吾妻町)の刀研ぎの家に生まれた。はじめ長井雲坪、四谷延陵に学び、19歳の時に伊香保温泉に逗留中の菅原白龍を訪ねて入門を直訴、許可を得て上京し本格的な南画修業に入った。
白龍のもとでは、雑務に追われながら寸暇を惜しんで名家の作品を模写し、画帖は280余冊を重ね、3年目には絵画展で受賞するようになった。しかし、白龍の人格・画風に馴染めなかったこともあり、骨董屋で見た高森砕巌の作品に傾倒し、26歳頃砕巌に師事した。
砕巌のもとで47歳頃まで修業したのち、明治29年から各地を旅するようになり、それは18年に及んだ。その遊歴は、一回目は北海道、秋田、新潟の佐渡、二回目は主に上信越、東海、飛騨、京都、紀伊、九州を巡り、その間、海峡を渡って朝鮮半島も訪れた。三回目は山口から台湾に渡り、さらに中国大陸の江南を探訪した。
大正2年、長期の遊歴を終えた洞巌は、東京に戻り、神田明神内に仮寓したあと小石川に定住した。当時の中央南画界は、展覧会参画や団体結成で、南画家たちは離合集散を繰り返していたが、洞巌はその奔流から身を避け、市井の一隅で静謐を保ち、書画三昧の日々を悠然と送っていた。洞巌の閑居「巵香老屋」には、陶芸家の井高帰山、篆刻家・中村蘭台、生け花の勅使河原蒼風ら多彩な文化人が訪れていたという。
親交のあった小説家の吉川英治は、洞巌没後の昭和35年に刊行された『洞巌風雅集』贈序のなかで「その生活、その詩画境、そして東洋的な宇宙観と人生の愉しみ方を、市井の一隅に渾然と、いや黙々と完成し澄まして、音もなく世を去った」とその画業と生き様を振り返り、「ほんとの南画人らしい日本の南画人は翁を最後として、もういまの世間には見当たらなくなったと私は思っている」と、洞巌を最後の南画人と称し、その死を惜しんだ。
新井洞巌(1866-1948)あらい・どうがん
慶応2年吾妻郡原町生まれ。新井半重郎の二男。生家は代々半左衛門を名乗り、農耕のかたわら職人をおいて刀研ぎを業とし「研屋」といわれた。名は信吉、字は子本。別号に白雲、散木道人がある。その居は巵香老屋と称した。はじめ長井雲坪、四谷延陵に南画を、貫名海雲に漢学を学んだ。明治18年上京して菅原白龍に学び、のち高森砕巌に師事した。作画のかたわら落合東郭について書簡を通しての漢詩指導を受けた。明治29年から18年間各地を旅し続け、中国洞庭湖にまで及んだ。大正2年東京に戻り小石川に定住した。大正7年「南画の描き方」を著した。昭和14年吉川英治の勧めで個展を開催。昭和23年、82歳で死去した。昭和35年群馬県立博物館で特別遺作展が開催され、同年『洞巌風雅集』が刊行された。
群馬(15)-画人伝・INDEX
文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、『ぐんま』ゆかりの先人、上毛南画史、群馬県人名大事典