画家略歴

秋田(6)-ネット検索で出てこない画家

江戸後期の画家(2)
三浦文渓
鹿角の画家。名は富作。文嶺に学んだ。

佐竹南岳
嘉永2年4月10日生まれ。湯沢十三世の城代。諱は義誠、幼名は新発意、三郎、淡路と称した。父は義孟、子に義隣、孫に義雄がいる。慶応4年1月26日死去。

根田秀儁
寛政6年生まれ。佐竹武士で担当は久保田城内の刀番。名は俊安、通称は冲之助、別号に聴松軒がある。狩野秀水の門人。八幡秋田神社に額がある。また、寺町誓願寺の天井に竜の図、久保田城中から同寺に移した阿弥陀堂に佐竹義厚筆の歌仙絵を描いている。嘉永3年2月24日、69歳で死去した。

高橋卦斎
寛政8年生まれ。佐竹武士だが横手城代戸村十太夫配下で、久保田の横手屋敷に住んでいた。本名は茂親、通称は藤吉、別号に載陽軒、松涛庵、雲客居士、五英(俳号)がある。多くは残っていないが、《蝦蟇仙人》などの作品がある。嘉永5年死去。

菅谷秀谷
寛政9年生まれ。秋田藩。名は君恒、通称は銀治、別号に松声斎、大平庵がある。狩野秀水の門人。安政元年、58歳で死去した。

滑川竹斎
天明7年8月5日生まれ。秋田藩士。漢学者で画家。初名は通約、通称は駒之助または長蔵、諱は通惇、字は子篤、別号に緑蔭、頑翁がある。角館の常世翠巒の門下。安政3年1月24日死去。

片岡篁斎
佐竹武士。秋田市上中島に住んでいた。本名は春輝、字は元寿、初号は功斎。武士だったが画才があったため、文晁門の依田竹谷につき学び、帰郷後は多くの画家を育てた。 作品は《虎》《武者》が残っている。安政4年3月21日死去。

浄阿坊
天明2年遠州浜松生まれ。本名は政継。別号に水滸山人、宗宝、一葉山人、小泉正統、月廼舎、顕徳などがある。父は浜松城主井上氏の家老だったが、洋式兵術を採り入れたため幕府の怒りをかい城主とともに退隠を命じられた。洋式兵術に熱心だった浄阿も追放になり諸国行脚の旅に出て、幕末の弘化4年末頃、仙北郡西木村西明寺に入った。村の阿弥陀堂に仮住まいし、付近の青年を集めて、国学、絵画、囲碁将棋、天文地理、兵学、気合い術を教えたという。安政4年に北秋田郡阿仁町大阿仁字幸屋渡に移り、同年5月、77歳で死去した。40年余りの放浪の旅の中で100冊余りの著書を残し、絵は「タカ」「鐘馗」「雲竜」を得意とした。浄阿の別号である水滸山人の印を押した雲竜図を持っていると火難よけによいといわれた。

伊藤鶴嶺
幕末の湯沢市の画家、家相学もした。通称は仁兵衛、儀兵衛または儀平。阿部鶴峰に師事した。

秋田(6)-ネット検索で出てこない画家

文献:秋田書画人伝




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