藩の絵師として全盛を極めた狩野派や住吉派にかわり、江戸後期から末期にかけて新しい画境を切り開いたのは、長崎系南画の流れや円山派だった。今治藩の山本雲渓(1780-1861)は、医術を学ぶため大坂に出た際、円山派の流れを汲む森狙仙の門に入り、写実的な密画の筆法を身につけ、師と判別がつき難いほどの猿の画を描いた。今治の神社仏閣に多くの絵画を描き「雲渓さん」の愛称で親しまれた。また、江戸に生まれ宇和島に移った大内蘚圃(1764-1842)も森狙仙に師事し、猿の画を得意とした。
山本雲渓(1780-1861)
安永9年伊予大井村生まれ。通称は雲平、諱は邑清、字は好徳。別号に月峰人、月峰斎、清月亭がある。画室を月光堂と称した。天明3年、父の輔清に伴い一家で今治城下に転居した。幼いころから学問に秀で、大坂で医術を学び、帰郷してから医院を開業した。今治藩に典医として仕えたとも伝えられる。特に小児科にすぐれていたという。画道に関しては、大坂で森狙仙に学んだと伝えられ、師と同じく猿を最も得意とした。画家としての評判は高く、求めに応じて制作しており、文政4年に讃岐金刀比羅宮への奉納額に「鐘馗」を揮毫したのをはじめ、安芸厳島神社や大山祇神社、和霊神社など、各地の神社に多くの絵馬を残しており、伊予内外に50点余りの絵馬が確認されている。文久元年、82歳で死去した。
大内蘚圃(1764-1842)
明和元年江戸麻布龍土生まれ。通称は平三郎。江戸詰めの宇和島藩士だったらしい。どのような形で宇和島に出向いたのか定かではない。幼いころから画を好み、森狙仙の門に入って学んだとされる。師と同じく猿の画を得意とし、残された数少ない作品も大部分が猿のものである。その人物像は記録にもほとんど残っていないが、性格は温厚だが、かなりの酒好きで、すこぶる奇行に富んだ人物だったらしい。江戸に戻り、天保13年、79歳で死去した。
愛媛(10)-画人伝・INDEX