山水・真景

白河藩主・松平定信に仕え、西洋画法を用いて「公余探勝図巻」を描いた江戸南画の大成者・谷文晁

2021/7/6  

谷文晁「公余探勝図」巻下 第3図(重文)松平定信が近海防衛のため、寛政5年に伊豆・相模方面の沿岸を巡見した時に、同行した谷文晁が描いたもの。西洋的な遠近法をとりいれ、実際の景色を忠実に写すことを主眼と ...

琴の奏者として会津を訪れた近世南画の大家・浦上玉堂と会津藩の音楽方として生きた二男の秋琴

2021/7/6  

浦上玉堂「山紅於染図」重文 岡山藩の支藩・鴨方藩士の子として岡山城下に生まれた浦上玉堂(1745-1820)は、藩務のかたわら、儒学や医学・薬学といった学術、詩作や七絃琴といった芸術の分野にも関心を示 ...

狩野探幽門下四天王のひとり、会津藩御用絵師・加藤遠澤

2021/7/6  

加藤遠澤「富岳図」 会津藩絵師の加藤遠澤(1643-1730)は、幼いころから雪舟の画風を志し、保科正之が会津藩主になった際には茶坊主となり、藩絵師の棚木良悦に絵の手ほどきを受けた。19歳で狩野探幽に ...

京都で活躍した庄内出身の南画家・服部五老と二柳

2021/7/6  

服部五老「青緑山水図」山形美術館蔵 鶴岡に生まれた服部五老は、京都で田能村直入に師事し、日本南画院の同人として活躍した。全盛時は、橋本関雪、竹内栖鳳らと並び称され、画の注文が殺到したという。豪壮な邸宅 ...

山形画人として最も多くの作品を残したとされる小松雲涯

2021/7/6  

小松雲涯「山水図」 中山町の農家に生まれた小松雲涯は、幼いころから画を好み、14、5歳で画家を目指すようになった。はじめ同郷の服部武陵に画技を学び、のちに江戸に出て春木南溟に師事した。明治20年、56 ...

日本画革新運動のなかで日本的南画の開拓に尽力した菅原白龍

2021/7/6  

菅原白龍「山水図」山形美術館蔵 現在の長井市に生まれた菅原白龍は、9歳頃から『北斎漫画』を見て独学し、11歳の時に初めて長沼月峰、渡辺玄渓について南画を学んだ。その後家出して江戸に行き熊坂適山に師事、 ...

文化・文政期の漆山陣屋付き絵師・設楽東玉斎

2021/7/6  

設楽東玉斎、左から「人物図」、「山水図」、「花鳥図」 文化・文政期に活躍した山形・村山地方の絵師に、漆山村(現在の山形市)の設楽東玉斎がいる。東玉斎は、天童奈良沢の菱沼家に生まれ、のちに漆山の設楽家に ...

庄内地方の南画家

2021/7/6  

左:伊東梅月「蓬莱之図」、右:佐藤梅宇「孔子像」 庄内藩では、藩の絵師のほかに絵をたしなむ藩士が多かった。石井子龍は、絵を同藩の氏家龍渓に学び、のちに藩医で書家でもあった重田道樹に学んだ。生涯酒を好ん ...

目賀多家で最も傑出した名人と伝えられる目賀多雲川信済

2021/7/6  

目賀多雲川信済「山水図屏風」(上:右隻、下左隻)米沢市上杉博物館蔵 文政・天保の頃、米沢藩御用絵師の家系・目賀多家の分家である南目賀多家から出た目賀多雲川信済は、南・北目賀多家を通じてもっとも傑出した ...

米沢藩の御用絵師・目賀多雲川守息

2021/7/6  

  目賀多雲川守息「山水図」 米沢藩の御用絵師をつとめた目賀多家は、幕末にいたるまで代々江戸の鍛冶橋狩野家に入門して画技を習得し、狩野派の画風を継承した。目賀多家は二家あり、本家である幽雲系 ...




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