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肥後土佐派の祖・福田太華
2021/7/6
熊本における復古大和絵の展開は、文政11年に福田太華(1796-1854)が《蒙古襲来絵詞》の模写を始めたことが始まりとされる。太華は専門の絵師ではなく、熊本藩の馬医だったが、故実に通じ、《犬追物絵巻 ...
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肥後の画僧・豪潮と宇土藩主・細川月翁
2024/12/21
肥後出身の天台宗の高僧・豪潮(1749-1835)は、書画もよくした。豪潮は天台宗の僧だが、その画題には、禅宗的(釈迦三尊や羅漢図)なものが多くみられる。これは豪潮が交友した珍牛や仙崖ら禅僧の影響と思 ...
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肥後狩野の祖・狩野成信
2021/7/6
熊本城築城の際に、初代藩主・加藤清正が狩野派の絵師を招き入れ障壁画を描かせたことによって熊本での狩野派の活動がはじまったが、寛永9年、加藤氏の改易によって細川氏が熊本に入国すると、細川家は代々矢野派の ...
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矢野派の全盛・五代矢野良勝と衛藤良行
2021/7/6
四代雪叟によって再興された矢野派は、次の五代良勝と雪叟の門人である衛藤良行らの世代に全盛を迎えた。良勝や良行らは、雪叟によって回帰された雪舟風の筆法を修得し、それを基礎として実景や動植物を写生、さらに ...
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矢野派の再興者・矢野雪叟
2021/7/6
三代茂安の時代に衰退していった細川家御用絵師・矢野家だが、茂安の養子・矢野雪叟(1714-1777)が四代目を継ぐと、牧谿や雪舟など和漢の古画の模写などを通じて雪舟流の画風を再興し、雪舟流を基調とする ...
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宮本武蔵ら余技の画人
2021/7/6
肥後熊本藩をおさめていた加藤家や細川家は、全国的にも有名な大名であり、文化的な素養も備えていた。そのため、著名な学者や兵法者を周辺に集め、また自然に集まりもした。加藤家における文英清韓、那波活所、細川 ...
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熊本近世絵画のはじまり-矢野派の祖・田代等甫
2021/7/24
熊本城の正確な築城年代は明らかになっていないが、慶長15年(1610)頃には大広間や花畑屋敷は完成していたと考えられている。当時は、各地の城で大規模な障壁画が描かれるようになっており、熊本城築城にあた ...
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野口彌太郎と長崎ゆかりの洋画家
2021/7/11
野口彌太郎(1899-1976)は、諫早市出身の銀行家・野口彌三の長男として東京に生まれ、父の仕事の関係で各地を転々としたが、父の田園生活を送らせたいとの思いから、明治44年の約半年間を諫早の小学校で ...
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大正初期の美人画作家・栗原玉葉と長崎ゆかりの日本画家
2024/12/11
大正初期の文展で美人画作家として活躍した栗原玉葉(1883-1922)は、現在の雲仙市に生まれ、上京して寺崎広業に学んだ。大正2年、第7回文展に初入選し、第8回展では褒状を受け、人気画家としての地位を ...
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旧派の代表画家・荒木十畝と長崎出身の門人・小林観爾
2021/7/6
明治5年、現在の大村市に生まれた荒木十畝(1872-1944)は、20歳の時に上京して荒木寛畝に師事、寛畝の娘と結婚して家督を継いだ。谷文晁の流れを汲む南北合派の名門である荒木家を継いだ十畝は、日本美 ...
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佐伯祐三と行動を共にしフランスで客死した横手貞美
2021/7/11
昭和2年、横手貞美(1899-1931)は、東京美術学校を卒業したばかりの荻須高徳(1901-1986)、山口長男(1902-1983)とともに、横浜港からパリへ向かう旅客船に乗り込んだ。すでに2度目 ...
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外光派の風景画家・山本森之助と早世した人気画家・渡辺与平
2021/7/11
明治10年、山本森之助(1877-1928)は長崎市新橋町の料亭一力の長男として生まれた。明治27年に画家を志して大阪の山内愚仙に入門、翌年には上京して浅井忠の明治美術学校研究所に入り、さらに、東京美 ...
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存命中に遺作展を開催された長崎洋画の先駆者・彭城貞徳
2021/7/11
長崎出身の明治初期の洋画家としては、まず彭城貞徳(1858-1939)の名があげられる。彭城は、18歳の時に画家を志して上京、高橋由一が主宰する天絵楼に学び、さらに、初の官立美術学校である工部美術学校 ...
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長崎版画と版下絵師
2024/12/21
長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所など ...
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長崎三画人後の三筆、守山湘颿・中村陸舟・伊東深江
2024/12/21
長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘颿と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁 ...
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幕末の長崎三画人、鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門
2021/7/18
来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕 ...