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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2024/12/14
豊後出身の美人画家としては、西国東郡真玉町の吉原真龍(1804-1856)があげられる。真龍は文政期頃に京都に出て三畠上龍に入門し美人画を学んだ。京都を中心に活躍し、嘉永2年には宮中への出入りを許され ...
2021/7/6
本草学とは、中国医学に付属した薬物学で、薬を自然界から入手する以外に方法がなかった時代に、自然界で何が薬として利用できるのかを研究する学問である。奈良時代以前に中国から伝えられたとされ、当初は中国の本 ...
2021/7/6
雪舟等楊(1420-1506)の前半生については不明な点が多く、若いころに京都に出て相国寺の春林周藤に禅を学び、僧としての修業のかたわら、如拙や周文の画を学んだとされる。はっきりしてくるのは40代にな ...
2021/7/6
日田専念寺の僧・平野五岳(1811-1893)は、詩、書、画三分野すべてに傑出しているとして「三絶僧」と称された。詩は白楽天に私淑し、書を独学、画は田能村竹田の画法を研究した。画に関しては、田能村竹田 ...
2021/7/6
後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら、華道や茶道などの文化面にも高い関心を示 ...
2021/7/6
田能村直入(1814-1907)の叔父・渡辺蓬島は田能村竹田の初期の師のひとりということもあり、直入は幼いころから画に強い興味を示していて、9歳で竹田に師事した。竹田はその画才を愛し、直入は養子となり ...
2021/7/6
帆足杏雨(1810-1884)は、最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人とされるが、その一方で、中国画学習を深め、自己の画技を進めていくなかで、独自の画風を確立した。天保9年以降はほとんど大分を離 ...
2021/7/6
田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門人のなかで唯ひとり取り上げられていること ...
2021/7/6
日田豆田魚町の商家に生まれた広瀬淡窓は、幼いころから漢学・漢詩を学び、24歳の時に家督を弟に譲り、寺の学寮を借りて塾を開いた。塾は移転し、名を「成章舎」「桂林園」と変え、文化14年には、叔父・月化の隠 ...
2021/7/6
田能村竹田が生涯もっとも親しく交遊したのが頼山陽(1781-1832)である。山陽は日本外史を著したことで知られる漢詩人で、大坂で生まれ広島で育ったが、その後、居を京都に定め、多くの文人・画人と交流し ...
2021/7/6
篠崎小竹(1781-1851)は、近世後期の大坂を代表する文人で、漢詩、漢文に優れ、書家としても高名である。父親が豊後杵築の出身ということもあり、田能村竹田とは京坂の文人グループで親しく交遊し、よく遊 ...
2021/7/6
雲華上人(1773-1850)は、姓を末広(弘)といい、豊前国中津の正行寺第十六世住職をつとめた僧である。江戸後期の東本願寺教学の最高学職である講師をつとめ全国を遊説する一方で、田能村竹田(1777- ...
2021/7/6
田能村竹田(1777-1835)が正統南宗画法によって本格的に南画を描き始めた年には、すでに与謝蕪村、池大雅は没しており、南画では浦上玉堂、岡田米山人、青木木米らが作画を行なっていた。そこに、次世代と ...
2021/7/6
江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派が精彩を欠くなか、文人たちの興味は、新たに中国大陸からもたらされた南画に移っていった。二豊(豊後と豊前)においても、田能村竹田(1777-1835)より一世代前 ...
2022/3/30
中津藩と同じく杵築藩でも狩野派の藩絵師の存在は確認できない。時代は下るが、杵築藩第九代藩主・松平親良(1810-1891)が狩野勝川に、藩絵師の足立秋英(1825-1895)が狩野探原に一時期学んでい ...
2021/7/6
豊前中津藩では、円山派の絵師・片山九畹が、天明5年に「御絵師御茶之間詰」に任命されている。九畹は別号に東籬があり、東籬は片山家歴代龍名の号らしく、子の九皐もまた東籬と号した。九皐の子・藤憧も父に学び、 ...