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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/7/6
三河国で生まれた菅江真澄(1754-1829)は、30歳の時に故郷を離れ、信濃、越後、蝦夷地、下北、津軽、秋田と歩き、その人生の大半を旅に暮らした。はじめは白井英二、秀超、秀雄などと称していたが、48 ...
2021/7/6
由利・本荘地方は、本荘狩野といわれる独自の絵画圏をつくり、狩野派が大きな勢力を持っていたが、谷文晁系の南画を学んだ増田九木は、長い旅の末に広く画名をあげ、帰郷後には藩御用絵師として活躍した。 増田九木 ...
2021/7/6
本荘市の永泉寺山門は、本荘藩最後の藩主・六郷政鑑の時代に、永泉寺六世義門達宣の発願によって3年の歳月をかけて慶応元年に完成したもので、昭和43年に秋田県有形文化財に指定されている。山門の楼上には、本荘 ...
2021/7/6
本荘藩御用絵師の初代である牧野永昌(1747-1823)は、秋田狩野の祖とされる狩野定信とは別系統に属する狩野派の絵師で、いわゆる本荘画工といわれる一連の画人の始祖である。はじめ藩の絵師に手ほどきを受 ...
2021/7/6
藩政時代の秋田藩御用絵師は、秋田狩野派の祖とされる狩野定信の画系が代々つとめていたが、その系列とは別に第9代秋田藩主・佐竹義和の時、狩野秀水(不明-不明)が江戸定居の御用絵師となり、秋田の年中行事を記 ...
2021/7/6
秋田に最もはやく南蘋派の画法を伝えたのは、横手の佐々木原善(不明-不明)とされる。原善は横手城代の戸村義敬・義通(後草園)親子をパトロンとし、安永年間に江戸に出て松林山人について学び、さらに長崎に行き ...
2021/7/6
秋田蘭画は、小田野直武、佐竹曙山を中心に盛り上がりをみせたが、安永8年、直武に西洋画法を伝授した平賀源内の死去にはじまり、翌年には直武が、その5年後には曙山も死去し、創始に関わった人物の相次ぐ死により ...
2021/7/6
秋田蘭画の画家としては、平賀源内に西洋画法を伝授された小田野直武と、直武から画法を学んだ秋田藩主・佐竹曙山を中心に、直武のよき理解者だった角館城代の佐竹義躬、直武とともに源内から直接学んだとされる田代 ...
2021/7/6
佐竹曙山の直臣・荻津勝孝も秋田蘭画を描いた人物のひとりとされ、平賀源内が秋田滞在中に、小田野直武、田代忠国とともに源内に西洋画法を伝授されたと伝わっている。狩野洞春の画風を学んだが、専門画家ではなく、 ...
2021/7/6
秋田の俳人・森田顕忠の子として生まれた田代忠国は、秋田藩士・田代網紀の養子となり、産物方として佐竹曙山、義和の二代の秋田藩主に仕えた。洋学に通じ、直臣としてよく仕えたので、曙山から「忠国」の名を賜った ...
2021/7/6
第6代角館城代の佐竹義躬(1749-1800)は、小田野直武が直接仕えた上役であり、よき理解者だった。そして、直武から直接西洋画法を学んだ秋田蘭画の画家のひとりでもある。義躬の父・義邦は芸文を好み、そ ...
2021/7/6
秋田蘭画が生まれるきっかけとなった平賀源内の秋田招聘は、時の秋田藩主・佐竹曙山によって行なわれた。曙山は、鉱山開発のために招いた源内が角館で小田野直武に洋画法を伝授したことを知ると、すぐに直武を江戸に ...
2021/7/6
小田野直武(1749-1780)は、寛政2年に秋田藩角館の武士の家に生まれ、幼いころから画才を示したといわれ、秋田藩お抱え絵師から狩野派を学び、さらに南蘋派など幅広いジャンルの絵画を独学で修め、秀作を ...
2024/12/14
江戸中期になると、蘭学と密接に結びついた和洋折衷の洋風画が、長崎、京坂、江戸、須賀川、秋田など各地で展開されるようになった。そのなかでも、秋田藩士・藩主らによって形成された「秋田蘭画」は、江戸系初期洋 ...
2021/7/6
横手地方には、好んで鷹を描いた「横手鷹」といわれる画家の系譜があり、小川隆雅はその後継者である。その生涯についてはよくわかっていないが、全国を放浪し、三重県で没したと伝わっている。 小川隆雅(不明-不 ...
2021/7/6
秋田で最も早く名前が出る画人は、室町時代に活躍したと伝わる雄勝郡雄勝町小野の西海杖太郎左衛門である。姓は小野寺とも称し、出羽国小野の城主で、雪舟門だったと伝わっている。ついで長谷川隆也(または片岡)が ...