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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/8/26
恩田緑蔭(1819-1874)は、松代藩で活動した女性画家で、松代藩士・四代恩田織部(恩田民正)の長女として生まれた。恩田織部の家は、代々二百石を継承する比較的裕福な家で、初代の恩田民格は、18世紀に ...
2021/8/25
嘉永6年(1853)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れると、松代藩は品川に設けられた台場の警衛を担当し、翌7年のペリー再来航でも、横浜に設けられた応接場の警衛を小倉藩とともにつとめた。当時の松代藩 ...
2021/8/23
三代にわたって松代藩の絵師をつとめた大島家の初代・大島芳雲斎(1766-1840)は、天明年間に江戸に出て木挽町狩野家に入門した。この時期は、松代藩江戸詰の絵師として木挽町狩野家の門人だった晩年の三村 ...
2021/8/20
松代藩に任えた絵師として記録上最も早く登場するのは、三村自閑斎(不明-不明)である。自閑斎は、一郎平と名乗り、藩評定所の絵図書をつとめていたとされ、現在残る作品も絵図に類するものである。師系は不明だが ...
2021/8/18
秦燕恪(1732-1799)は、小県郡和田村(現在の小県郡長和町)に生まれ、はじめは狩野玉燕の作風を慕って私淑したが、のちに江戸に出て木挽町狩野家六代目の狩野栄川院典信の門に入った。その後帰郷して地元 ...
2021/8/16
狩野永琳(1767-1808)は、信濃国小県郡西前山村(現在の上田市西前山)に農家の二男として生まれた。経歴は不明な点が多く、作品も数点しか確認されていない。少年の頃は耕作に従事し家業を助けていたが、 ...
2021/8/14
上田藩御用絵師をつとめた狩野永翁(1731-1805)は、実名を勝信といい、生まれは奈須氏だった。奈須氏は絵師の家系で、代々江戸の中橋狩野家の門人となって狩野派の技法を学んだ。上田藩御用絵師としての奈 ...
2021/8/12
信州安曇野に狩野派の絵師が登場するのは、江戸中期に入って宝永年間のことである。穂高町だけでも十指を数える絵師が記録に残っており、そのなかでも最も年代が古いのが狩野梅二(1704-1786)である。 穂 ...
2021/8/10
天龍道人(1718-1810)は、肥前鹿島藩の庶子に生まれたが家老の子として育てられ、14歳の時に藩主の継嗣候補となったがそれもかなわず、藩主の逆鱗に触れて一家は改易浪人として配処に移された。15歳頃 ...
2021/8/2
増田誠(1920-1989)は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)に生まれた。幼いころから絵が得意で、中学時代には「似顔絵の天才」といわれていたという。昭和16年に従軍、鹿児島で終戦を迎え、戦後は釧 ...
2021/8/2
のむら清六(1916-1995)は、山梨県西八代郡下九一色村(現在の市川三郷町)に生まれた。高等小学校卒業後、横浜の親戚が営んでいた石原製綿所に寄宿し、手伝いのかたわら絵を描いた。画家志望が強く、16 ...
2021/7/28
三枝茂雄(1920-1989)は、山梨県甲府市に生まれた。生家は二代続いた製材業、製車業を営んでいた。4歳頃から書の手習いを始め、13歳頃には飯田蛇笏主宰の「雲母」に俳句を投句、また、中川宗淵に傾倒し ...
2021/7/25
手塚一夫(1911-1939)は、山梨県中巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)の養蚕農家の長男として生まれた。小学生の頃から図画が好きで、紙がないときには運動場の地面に絵を描いていた。小学校高等科の時、 ...
2021/7/12
山梨県河口湖町に生まれたポール・ホリウチ(1906-1999)は、15歳の時に両親の移民先である米国に呼び寄せられ渡米した。ワイオミング州のユニオン・パシフィック鉄道に職を得たが、日米大戦中の昭和17 ...
2021/7/7
昭和12年、在京、県内在住者を含めた山梨県出身の美術家たちが、日本画、洋画、彫刻のすべてを網羅して「山梨美術協会」が結成され、東京新宿の高野フルーツパーラーで発会式が挙行された。 当夜の出席者は、県内 ...
2021/7/5
昭和4年、山梨師範学校出身の小柳津経広、中村宗久、田中常太郎らが提唱し、これに太平洋美術学校出身の砂田正己、内田一郎らが呼応して集結し、さらに在京の埴原久和代、土屋義郎、橋戸素視、金子保、小俣球一、金 ...