画人伝・京都 土佐派・大和絵系

江戸末期の土佐派の名手と謳われた土佐光孚

土佐光孚「悠紀屏風 文政元年度七月・八月帖」東京国立博物館蔵

土佐光孚「悠紀屏風 文政元年度七月・八月帖」東京国立博物館蔵

土佐光孚(1780-1852)は、江戸末期に京都で活躍した土佐派の絵師で、土佐家分家初代の土佐光貞の長男とされ、家職の絵所預を継いだ。ただし、住吉家土佐家伝には光孚は御園玄蕃頭の三男とされていることから、土佐家に養子に入ったとの説もある。

父に画法を学び、10歳の時には寛政度の内裏造営に参加し清涼殿名所屏風を描くなど、早くから頭角をあらわした。伝統的なやまと絵を基盤に、時代に合ったみずみずしい写実性を取り入れ、その実力は父の光貞を凌ぐとも評され、江戸末期の土佐派の名手と謳われた。

文政元年には、仁孝天皇の即位に伴う大嘗会のため「悠紀屏風 文政元年度七月・八月帖」(掲載作品)を制作し、同年正五位下に叙せられ、宮廷絵師としての地位をさらに盤石なものとした。

ほかに、江戸後期の土佐派の絵師としては、土佐派分家を継いだ光孚の長男・光清、その子・光武、土佐派本家を継いだ光時、その子の光禄、その養子となって本家を継いだ光孚の二男・光文らがいる。

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土佐光孚(1780-1852)とさ・みつざね(みつたか)
安永9年生まれ。土佐派分家二代。土佐光貞の長男とされる。幼名は虎若丸、字は子正。鶴皐と号した。10歳の時に清涼殿名所屏風を描き、翌年備後介に任命され元服した。寛政9年正六位下、享和4年従五位下、文化3年には27歳で土佐守に任命された。文政元年大嘗会悠紀主基屏風制作。同年正五位下、文化12年従四位下、天保11年従四位上、嘉永5年正四位下に叙せられた。安政度の内裏造営にも参加した。嘉永5年、73歳で死去した。

土佐光時(1764-1819)とさ・みつとき
宝暦14年生まれ。土佐光淳の子。家職の絵所預を継いだ。幼名は長松丸、字は子中。南澗(淵)と号した。安永4年従六位上、左近将監、天明2年正六位下、天明9年従五位下、寛政8年従五位上、享和3年正五位下、文化10年伯耆守、文化11年従四位下に叙された。寛政度の内裏造営では光貞に次ぐ位置で障壁画を制作した。文政2年、56歳で死去した。

土佐光禄(1794-1849)とさ・みつよし
寛政6年生まれ。土佐光時の子。幼名は藤満丸。画法を父に学び、絵所預となった。11歳で上野介に任命され元服した。18歳で左近将監に任命された。嘉永2年、56歳で死去した。

土佐光清(1805-1862)とさ・みつきよ
文化2年生まれ。土佐派分家三代。土佐光孚の長男。10歳で豊前介に任命され、17歳で伊勢守となった。安政度の内裏造営では、本家を継いだ弟の光文ともども主要な部屋を担当した。文久2年、58歳で死去した。

土佐光文(1812-1879)とさ・みつぶみ(みつあや)
文化9年生まれ。土佐光孚の二男で、本家の土佐光禄の養子となり本家を継ぎ、絵所預となった。幼名は延丸、字は子炳。韓水と号した。16歳で縦六位に叙せられ肥後介に任命され、13歳で左近将監になった。安政度の内裏造営では、兄光清とともに主要な場所を描いている。明治12年、68歳で死去した。

土佐光武(1844-1916)とさ・みつたけ
天保15年生まれ。土佐光清の子。幼名恒丸。嘉永7年従六位上、豊前介、文久元年正六位下、文久3年土佐介、明治2年従五位下、土佐守となった。安政度の内裏造営では御湯殿鳥居障子などを担当した。大正5年、72歳で死去した。

京都(134)-画人伝・INDEX

文献:江戸絵画の非常識、日本画家人名事典、江戸の花鳥画譜




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