田村孝之介(1903-1986)は、大阪船場に生まれ、17歳の時に上京して太平洋画会研究所に学び、翌年帰郷して小出楢重に師事した。大正13年、小出らによって信濃橋洋画研究所が創設されると、開所と同時に入所し、小出をはじめ、鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らに学んだ。
昭和2年、二科展に初入選を果たし、以後二科展に出品した。昭和4年、神戸市六甲に転居し、昭和6年頃には六甲洋画研究所を開設して後進の指導にあたるとともに、兵庫県美術家連盟の一員としても活動し、県内洋画壇の発展に尽くした。
戦時中は、軍の命令で記録画作成のため各地を巡ったが、昭和20年、南方現地における特別攻撃隊の訣別を主題にした記録画を制作中に空襲に遭い、多くの作品を焼失し、その後兵庫県朝来郡竹田に疎開した。
戦後は、旧二科会会員だった熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、中川紀元、正宗得三郎、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市(横井礼以)とともに、昭和22年、第二の紀元を画する意図のもと第二紀会(のちに二紀会と改称)を創立し、以後、同会を中心に作品を発表した。
昭和32年には東京に拠点を求め、晩年は藤沢にアトエエを構え、日本洋画壇の中心的存在として活躍した。
田村孝之介(1903-1986)たむら・こうのすけ
明治36年大阪市生まれ。本名は大西孝之助。大正9年上京し太平洋画会研究所で学んだが、翌年大阪に帰り小出楢重に師事し、大正13年から小出らが創設した信濃橋洋画研究所で学んだ。大正15年中央美術展初入選。昭和2年第14回二科展初入選。昭和4年神戸市六甲に転居し、昭和6年頃六甲洋画研究所を開設。昭和11年二科展で奨励賞を受賞、昭和12年会員となった。同年栗原信、宮本三郎とともに朱玄会を結成。昭和22年二紀会の創立に参加。昭和27年渡欧して制作し翌年帰国。戦時中は軍より派遣されてビルマ、フィリピンなどに取材した。昭和58年日本芸術院会員、昭和60年文化功労者となった。昭和61年、82歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(田村孝之介)
兵庫(57)-画人伝・INDEX
文献:兵庫の美術家県内洋画壇回顧展、神戸ゆかりの芸術家たち、兵庫の絵画100年展、神戸洋画会とモダニズムの継承者たち、没後十年田村孝之介展、二紀会公式ページ