山梨県巨摩郡浅尾新田(現在の北杜市明野)に生まれた三枝雲岱(1811-1901)は、14歳の時に蔵原村の三光山宝原寺の三枝家の養子になり、22歳で住職となった。幼いころから画を好み、はじめ甲府の竹邨三陽に学び、のちに同じ三陽門下の中丸金峰(のちの洋画家・中丸精十郎)とともに京都の日根対山に師事したと伝わっている。
生涯山梨県内に住んでいたが、各地を遊歴して画技を磨き、喜田華堂、中西耕石らにも学んだと伝わっている。明治13年には山梨への明治天皇巡幸に際して二幅を献上した。
その後も精力的に作画活動を行ない名を高め、82歳の時に望仙閣で開催された「三枝雲岱祝賀書画大会」には、全国から多くの著名書画家が揮毫、出品して祝っている。また、90歳の時には、皇太子(のちの大正天皇)御成婚に際して掛幅を献上している。
同地区の画人としては、慶応年間(1865-68)から明治にかけて活動した禅僧の玉川巻石(不明-1888)がいる。その作品は、どの画派にも属さない独自の画風だったという。
三枝雲岱(1811-1901)さえぐさ・うんたい
文化8年山梨県巨摩郡浅尾新田(現在の北杜市明野)生まれ。旧姓は小野。名は汰、字は淘之。別号に八岳がある。文政7年、14歳の時に巨摩郡蔵原村の三光山宝原寺の三枝家の養子になり、22歳で住職となった。竹邨三陽に師事し、のちに喜田華堂、日根対山、中西耕石らに学んだ。対山の影響により山水画、花鳥画にすぐれた作品を残している。明治13年には明治天皇御巡幸に際し「玉堂富貴図」「御嶽新道図」を献上。明治15年には第1回内国勧業博覧会に出品した「玉堂富貴図」「山水」が褒賞を受けた。明治34年、91歳で死去した。
玉川巻石(不明-1888)
若神子村臨済宗東漸寺住職。名は古龍。名は画幅とともに世に知られ、檀信徒のなかでも珍蔵する者も多かったと伝わるが、経歴は明らかではない。明治21年に武州の地で80余歳で没したとされる。
山梨(08)-画人伝・INDEX
文献:山梨の近代美術、須玉町史通史編第1巻、山梨に眠る秘蔵の日本美術、山梨県立美術館蔵品総目録5 2000-2007、山梨県立美術館蔵品総目録6 2008-2015