岸派の祖・岸駒の生い立ちに関しては不明な点が多く、生地については富山説と金沢説がある。家伝では岸駒の父親は、加賀前田家の支藩である越中富山藩を退官して金沢に移ったとされ、岸駒は金沢において出生したとある。しかし、岸駒の母親が富山出身で再婚であることから、連れ子説などもあり、結論は出ていない。
また、生年に関しても、寛延2年(1749)と宝暦6年(1756)の2説がある。岸駒の没年齢の記録については、大正時代の売立目録に「天保9年83(自称90)才にて没す」とあり、自称としていることから宝暦6年(1756)生まれだが、寛延2年(1749)と称していたのではないかという説もあるが、墓碑には90歳で没とあり、結論は出ていない。
岸駒の父親は、金沢に移住してからも居所を転々とし、家は貧しく、岸駒は12歳で紺屋に丁稚奉公に出るなど貧困のなかで育ち、商家の看板を見ながら文字を覚えたという。絵についても師についた形跡はなく、見よう見まねで描いていたと思われ、13歳くらいから絵を描くための旅に出ている。
青年期に2度ほど京都に上っているが、31歳の時に母とともに京都に上り、結婚して堺町三条下ルに住んだという記録が残っている。その後、独学で南蘋派をはじめとする諸派の画法を研究し、写生も加味した新しい画風を構築したという説もあるが、活動期録から、上京した年かその翌年に円山応挙に入門し、長い間応挙一門の画家として活動していたとみられる。
その間、36歳の時に有栖川宮家御学問所の障壁画を描き、その年のうちに有栖川宮家の家臣となり、絵師としての出世の基盤を得ている。寛政11年には清人から虎の頭の剥製を贈られ、それを写生して描いた虎図は、それまでの中国の粉本をもとにしたものとは異なり迫力があると評判になり、「岸駒の虎」として人気を博した。
京都画壇で成功をおさめた岸駒は、多くの門人を育成し、応挙没後には、自らを祖とする岸派を形成した。岸派は、江戸後期の京都画壇で円山四条派に伍する勢力を誇り、岸駒の没後は、長男の岸岱が継承し、その広がりは全国にまで及び、流派としての活動は明治まで続いた。
岸駒(1749or1756-1839)がんく
生年と生地については寛延2年金沢出生説と同年高岡出生説と宝暦6年金沢説がある。姓は佐伯、岸氏。名は駒、諱は昌明、字は賁然。号に華陽、虎頭館、同功館などがある。安永4年岸矩を名乗り、蘭斎と号した。安永9年京都へ上り円山応挙の門に入り応挙一門の画家として活動したと思われる。天明4年有栖川宮家御学問所の障壁画を描き、有栖川宮家の家臣となり雅楽助を賜り、名を岸矩から岸駒に改めた。寛政11年清人から虎頭と四脚を贈られ、虎頭館と号した。文化4年東洞院本宅裏に画院を建て同功館と号した。文化6年加賀藩主前田家に招かれ金沢城二之丸御殿の障壁画を制作。翌年室町四条に画楼を建て、2年後にはこれを芙蓉楼と称し、のちに画雲楼とした。晩年には従五位越前守に任じられた。天保9年、83歳or90歳で死去した。
富山(01)-画人伝・INDEX
文献:写された絵遺された絵-岸駒・岸岱岸派絵画資料をめぐって、岸駒-没後一五〇年記念特別展、岸派とその系譜、越中の美と心