8世紀中頃に勝道上人によって開かれた霊地日光山には、多くの宗教的絵画が制作され奉納されたが、中世の絵師についての情報は極めて少ない。絵師たちがその名を残すようになるのは、江戸時代になり徳川家康を祀った日光東照宮が造営されてからである。日光山の代表的な絵師としては、幕府の御用絵師だった狩野探幽、住吉具慶をはじめ、江戸と京都の絵仏師、神田宗庭、木村了琢の名をあげることができる。
絵仏師とは仏画を専門にした絵師で、神田宗庭も木村了琢も代々世襲でその名を名乗っている。ともに江戸幕府任命の深秘職として、日光東照宮の造営や改修の絵画御用をつとめた。
神田宗庭は、江戸幕府お抱え絵仏師として江戸に住んでいた。初代神田宗庭が寛文2年に73歳で没するとの記録があることから、絵仏師としての家系の成立は江戸幕府の誕生と同時期と考えられている。日光や久能山に地神像や三所権現像などの仏画が現存し、浅草寺には三代善信の「熊谷稲荷縁起絵巻」が伝わっている。
木村了琢は、代々京都に住んで御所の絵所に仕え、宮廷や各地の寺院の仏画制作や修理に従事していた。日光山を中興した天海僧正の信頼が厚かった四代了琢が、寛永12年にその推薦を受けて法橋の位を授けられてから日光山との関わりがさらに深まり、日光東照宮や輪王寺の絵画御用や修復に従事した。特に東照宮御本社御内々陣および内陣の彩色絵を独占的に描いている。
神田宗庭 かんだ・そうてい
神田家は江戸在住の江戸幕府お抱え絵仏師の一家で、代々神田宗庭を名乗った。上方の絵所絵師木村了琢とともに、幕府任命の深秘職として、日光東照宮の造営や改修の絵画御用をつとめた。のちに上野の輪王寺宮の御家来としての扱いも受けている。初代は宗信で、宗房、善信、伊信、栄信、満信、貞信、隆信、要信、慶信、晃信と連なる。法橋に任じられたものもいる。
木村了琢 きむら・りょうたく
木村家は京都御所の絵所、天台系の絵仏師一族四家のうちの一家で、代々木村了琢を名乗った。日光に東照宮が造営されてからはその絵画御用をつとめることが多かった。おおむね法橋位で、四代重綱、七代即應、八代貞易、九代喬久、十代久綱、十一代光綱と名手が続き、内部の荘厳な神君像、仏画など現存する作品も多い。
栃木(4)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術、栃木県歴史人物事典