画人伝・大阪 浮世絵師 人物画

上方浮世絵の様式を定着させた松好斎半兵衛

松好斎半兵衛「筑紫権六 嵐吉三郎」

松好斎半兵衛「筑紫権六 嵐吉三郎」

大坂役者絵の特徴である美化や理想化を拒否した写実精神は、翠釜亭によって方向づけられ、流光斎如圭が確立し、流光斎の門人である松好斎半兵衛によって定着された。

松好斎半兵衛(不明-不明)は、師の流光斎と同じく生没年不明だが、島之内清水町に住んで寛政7年から文化6年まで活躍したと思われる。役者絵のほか芝居案内書、役者一代記、根本、読本、滑稽本などに挿絵を描き、狂歌も作った。

画風は、初期の頃は師の流光斎に酷似していたが、寛政末頃から次第に洗練味を加え、独自の様式を確立していった。顔似せの手腕は確かなもので、やがて流光斎の人気を抜いたという。門人に春好斎北洲がおり、寿好堂よし国、真好、雪好、露好らも門人ではないかとされている。

松好斎半兵衛(不明-不明)しょうこうさい・はんべえ
大坂の人。姓は不明、通称は半兵衛。狂歌名は戯場好人、詠楽人。流光斎如圭の門人で、師に次いで上方浮世絵の様式を確立した。寛政・文化頃の人。役者絵のほか、劇場案内書、役者関係絵本、絵入根本などに広く活躍した。初期の画風は師に酷似している。島之内清水町に住んだ。『劇場楽屋図会』『劇場言葉草』『契情筥伝授』『ますかがみ』などが残っている。享和2年刊『浪華なまり』には「流行斎、松好の似面ハ百斎の川成をあざむけり」と評されている。

真好(不明-不明)しんこう
大坂の人。松好斎半兵衛の門人と思われる。春好斎北洲や春蝶との合作が残っている。

雪好(不明-不明)せっこう
大坂の人。雅号に「好」が使われていることから松好斎半兵衛の門人と思われる。

露好(不明-不明)ろこう
大坂の人。松好斎半兵衛の門人と思われる。文化9、10年の作品を残すのみで詳歴は不明。

大阪(56)-画人伝・INDEX

文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技




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