画人伝・大阪 浮世絵師 人物画

上方役者絵の祖とされる流光斎如圭

 

流光斎如圭「𫮾礎花大樹」小田家広間の場面

流光斎如圭「𫮾礎花大樹」小田家広間の場面

大坂における役者絵本は、安永9年に耳鳥斎が刊行した『絵本水や空』が最初とされるが、江戸ではすでに勝川春章(参考)・一筆斎文調(参考)合作による役者絵本『絵本舞台扇』が刊行されていた。この『絵本舞台扇』と『絵本水や空』の双方を意識して描かれたのが天明2年刊行の『翠釜亭戯画譜』とされる。

作者の翠釜亭は経歴不詳の謎の絵師だが、役者の上半身を画面の下隅からひねり気味に出す意匠を一方から学び、円熟した諧謔精神を他方より取り入れ、独自の画風と色彩で描いており、相当の技量の持ち主であると推測される。この『翠釜亭戯画譜』の画風が上方役者絵の方向性を決定づけ、それを流光斎如圭が確立した。

流光斎如圭(不明-不明)は、蔀関月の門人で、安永から文化初年にかけて活躍した。年次確実な初作としては、安永6年に刊行された『狂歌奈良飛乃岡』があり、円山応挙(参考)、桂宗信墨江武禅参考)、森周峰、蔀関月、与謝蕪村らとともに挿絵を寄せている。

この頃にはすでに画壇において相当な地位を得ていたと思われ、天明2年頃から役者似顔絵の名手として評判になったことが『大坂駄珍馬』『浪花見聞雑話』などによって知られる。読本、滑稽本の挿絵を描き、芝居関係の版本を出版し、特に肉筆役者扇面画が流行したという。

天明4年には歌舞伎俳優の全身を一人一頁ずつ描いた最初の役者絵本『旦生言語備』を刊行し、次いで寛政2年に『画本行潦』を刊行した。役者を美化することなく写し出すその画風は、写実的、粘り強いと説明される上方独特の役者絵の方向性を決定づけた。また、「真を写さんとする」とした東洲斎写楽に通ずるものがあるため、二人の関連性を求めようとする説もあるが、確証は得られていない。

流光斎如圭(不明-不明)りゅうこうさい・じょせい
大坂の人。姓は多賀、名は如圭、流光斎と号した。蔀関月の門人で、安永6年から文化年間に活躍した。墨摺の役者絵刊行後、天明4年に錦絵の役者絵を刊行し、上方独特の役者似顔絵様式を確立した。芝居関係書、読本、滑稽本などの挿絵も多く手掛け、主観的写実と上方的滑稽味、粘着性のある筆致を特色とし、迫真の似顔を描いた。北堀江に住み、のち難波新地京橋町に移住したと伝わっている。著書に『劇場画史』『旦生言語備』『絵本花菖蒲』『画本行潦』などがある。文化6年に刊行された『浪華画家見立角力組合二幅対』に登場して以後の活動は不明。

翠釜亭(不明-不明)すいふてい
天明2年刊『翠釜亭戯画譜』を残すのみの大坂の画人で、姓名も不明。なお「天明3年葵卯十一月写於翠釜亭 邦高」という款記及び「邦高 子登」の印をもつ円山派の絵画が紹介されており、翠釜亭との関係が問題視されている。

多賀子健(不明-不明)たが・しけん
大坂の人。流光斎如圭の子で、流光斎多賀子健とも呼ばれる。名は子健(一説に子僅)。号は朴仙。父に画法を学んだ。文化10年の木村蒹葭堂13回忌書画展には「竜田川図」を出品した。文化年間の『見立組』『浪人録』には堀江に住む画人として登場することから、文化頃の活躍がうかがえる。壮年にして没したという。

大阪(55)-画人伝・INDEX

文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技、上方浮世絵の世界




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