文政中頃から天保にかけての大坂南画壇は、文政7年版『浪加華人物誌』、天保8年版『浪華郷友録』によると、岡熊嶽・琴嶽父子、藤九鸞、森川竹窓、岡田半江、菅井梅関、木村石居、僧愛石、僧風外、春嶽の子鼎金城、藪長水、西竹坡、金子雪操らが互いに交流して切磋琢磨し、南画の興隆につとめていた。
金子雪操(1794-1857)は、江戸の幕臣犬塚家に生まれ、金子家の養子となった。幼少の頃、伊勢長島藩主・増山雪斎に仕え、画技も雪斎に学び「雪操」の号を授かった。致仕後は越後の釧雲泉に山水画法を学び、独自の青緑山水法を開発した。
一時京都に住んで書を学んだのち、天保4年頃に大坂の北新地桜橋に住み、貧困を意に介さず文雅の日々を過ごしたという。天保8年には吹田村の竹中知行所の代官・井内左門の招きで同村に移住し、弘化2年頃まで萬居し、その後大坂に戻り釣鐘町に住んだ。
逸話も多く伝わるが、名誉には近づかず藤沢東畡、八木巽処とは交流があったという。画の教授法については、一時火災のため粉本類を焼失し、以後粉本を用いずに描きたいものを描かせて完成に導くやり方を取ったため、初めは難しいがやがて進歩が速くなる結果を招いたという。
また、藤九鸞(不明-不明)は、詳しい経歴は伝わっていないが、寛政2年刊『浪華郷友録』に画家として登場し、文政7年刊『新刻浪華人物誌』に掲載されるまでの在世が確認できる。木村蒹葭堂と交流があり、蒹葭堂13回忌書画展に「雪中蜀棧道図」を出品している。残っている作品は少ない。
森川竹窓(1763-1830)は、大和国高市郡鳥屋村の人で、若年の頃江戸に出て秋田藩佐竹氏に仕え、数年後致仕し大坂に移った。書法を岳玉淵に学び、篆刻をよくし一家を成した。描画にも優れ墨竹図を好んで描き、松平定信の『集古十種』にも参加した。一方で書籍、書画、古器を収集愛玩したことでも知られ、同じ趣味を持つ木村蒹葭堂とは友人関係にあった。
金子雪操(1794-1857)かねこ・せっそう
寛政6年生まれ。江戸の人。旧姓は犬塚で、のちに金子氏の養子となった。名は大美、字は不言、孟玉。俗称は六蔵。別号に各半道人、有情痴者、塵海漁者、美翁、金翁、諼叟翁、翠陀小隠などがある。伊勢長島藩主・増山雪斎に仕えて画を学んだ。致仕後、越後の釧雲泉に山水を学び、独自の青緑山水をあみだした。漢詩文は大窪詩佛に学んだ。一時京都で書を学んだのち、吹田にしばらく寓居し、天保頃大坂に戻った。重層的な岩肌をみせる高峰が林立する山水を好んで描いた。安政4年、64歳で死去した。
藤九鸞(不明-不明)ふじ・きゅうらん
大坂の人。名は世微(世徴)、字は玄通、俗称は陽平。号は九鸞。木村蒹葭堂と交流した。詳しい経歴は不明。
森川竹窓(1763-1830)もりかわ・ちくそう
宝暦13年生まれ。大和国高市郡鳥屋村の人。江戸後期の書家・篆刻家。名は世黄、字は離吉、通称は曹吾。号は竹窓、長翁、柏堂。一時期江戸に出て秋田藩佐竹氏に仕えたが、のち大坂に移り住んだ。書を岳玉淵に学び、画もよくした。天保11年、68歳で死去した。
大阪(33)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人