上田公長には、子の公圭をはじめ多くの門人がいたが、詳しい経歴が伝わっているものは少ない。門人のひとりである浦川公左(佐)は、公長に画を学び、山水人物を得意とし、嘉永頃に活躍したと伝わっている。
公左(佐)の作画による版本も多く刊行されており、その多くが天保、弘化、嘉永年間のものである。主は版本としては、『風流俄天狗』『二十四孝絵抄』『金毘羅参詣名所図会』『西国三十三所名所図会』などがある。
浦川公左(佐)(不明-不明)うらがわ・こうさ
大坂の人。名は公左(佐)、俗称は播磨屋佐兵衛。上田公長の門に学び、嘉永頃に活躍したと伝わっている。山水人物を得意とした。『西国三十三名所図会』などの版本を刊行し、心斎橋、清水町御堂筋、島之内周防町に住んだ。
上田公圭(1815-1860)
文化12年生まれ。大坂の人。上田公長の子。名は公圭、字は肖孚(有孚)、通称は守一、謙蔵。号は公年、麥雨、百洲。父に画法を学び、山水花鳥を多く描いた。万延元年、45歳で死去した。
山口長受(1814-不明)
文化11年生まれ。大坂の人。名は儀忠、俗称は源七。号は長受。上田公長の門に学び、その画風は秀麗と伝わっているが、詳しい経歴は不明。
和田公美(不明-不明)
大坂の人。名は謙、または公美、字は子良、または子充。号は網渚、中梁。上田公長の門に学び、山水花鳥人物を描いた。
森路長(1810-不明)
文化7年生まれ。大坂の人。名は重雪、または忠恒、字は好文、または遊慶、俗称は布屋四郎兵衛。号は路長、遊慶斎。上田公長の門に学び、山水花鳥を描いた。安政3年における在世は確認できるが、詳しい経歴は不明。
橋爪公古(1821-不明)
文政4年生まれ。大坂の人。名は信、俗称は和兵衛。号は公古。上田公長の門に学び、円活の妙を得たと伝わっているが、詳しい経歴は不明。
川上鳳兮(不明-不明)
西宮の人。名は都澄、俗称は藤助。号は鳳兮、墨戯堂。上田公長の門に学び、山水花鳥を描いた。天保頃の活躍といわれるが、詳しい経歴は不明。
鈴木公隆(不明-不明)
大坂の人。名は親民、字は子敬、俗称は長順。号は公隆。上町に住み、上田公長の門に学び、山水花鳥を描いた。文化頃の活躍といわれるが、詳しい経歴は不明。
田中公憲(不明-不明)
大坂の人。名は憲、字は公憲、俗称は表平。上田公長の門に学び、人物花鳥を描いた。福井町に住んだ。
田中秋亭(1810-1858)
文化7年生まれ。大坂の人。名は興、字は子福、俗称は左一。号は秋亭、公雨、江雨。上田公長の門に入って師風を継ぎ、山水花鳥を描いた。しかし画が売れないのを歎き、決然と筆を投げて髪を切り幇間となったため公長より破門されたが顧みず、当時の人は却ってその快活さと瀟洒な画風を愛したという。安政5年、48歳で死去した。
中川山長(不明-不明)
大坂の人。名は吉知、字は子足。号は山長。西横堀炭屋町に住み、上田公長に画を学んで山水花鳥を描いた。公長の師とする史料もある。文政から弘化までの在世が知られるが、詳しい経歴は不明。
大阪(17)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、絵草紙に見る近世大坂の画家、大阪名家著述目録、大坂画壇の絵画、浪華人物誌2、大阪人物誌 巻4