上田耕夫(1759-1831or1832)は、摂州池田の人で長く京都に住み、文政後半頃に家族とともに大坂に引っ越したと思われる。京都に出たのは叔父の大徳寺無学和尚に学問を教わるためだった可能性が高い。一方で幼いころから画を好み、円山応挙に師事し、そのかたわら与謝蕪村の画風を慕い研鑽を積んだ。寛政期にはしばしば木村蒹葭堂宅を訪れ、村瀬栲亭、皆川淇園、上田秋成らとも交流した。
天保4年に田能村竹田が著した『竹田荘師友画録』では、耕夫について「祇園神社の南に住み、栲亭先生と親交があった。牡丹花を好んで植え、満開の折には幕を張って諸名士を迎えて酒宴を催すような豪侈な性格である。蕪村を研究して京派とは別の独得の風を持ち、晩年には大坂に移った」としている。
上田耕夫(1759-1831or1832)うえだ・こうふ
宝暦9年生まれ。摂州池田の人で長く京都に住んだが、晩年大坂に移った。名は華、字は清菜(茱)。号は耕夫、鼎湖、清水、清来山房。円山応挙に学んだが、与謝蕪村を敬愛し、京都画壇とは違った独自の画風を作成した。残っている作品は少ない。天保2年または3年に死去した。
大阪(13)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、大阪人物誌巻4、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画