
江中無牛「蝦蟇鉄拐」京都国立近代美術館蔵
江中無牛(1868-1928)は、福岡県久留米市の紙商を営む家に生まれた。幼いころから郷里の私塾・柳園塾で学び、平野五岳に師事して2年余り画を学んだ。15歳の時に上京して進文学舎に入ったが、父の体調が悪くなったため帰郷した。
明治19年再び上京し、明治22年に東京美術学校が開校されると一期生として入学した。同期に横山大観らがおり、無牛は級長をつとめたが、不満に思うことがあって中退した。その後は関西に移り、神護寺などで宝物の模写に従事していたが、岡倉天心の斡旋で帝国奈良博物館美術部主任となり、明治30年大阪に移住し、一時期は城崎にいた。
大阪に暮らし、画を生業とした無牛だったが、金銭のために描くことを嫌ったため多くの負債があったという。一方で、横山大観や菅楯彦に結婚をすすめたという逸話も残っており、世話好きな一面もあったと思われる。横山大観は、自らの雅号「大観」について、京都で無牛や禅寺の僧侶たちと飲でいる時に思いついたものだとしている。
江中無牛(1868-1928)えなか・むぎゅう
明治元年福岡県久留米市生まれ。名は萬、字は公愚。別号に玄素堂がある。平野五岳に画を学び、その後上京。明治22年東京美術学校に一期生として入学したがその後中退、東京の帝国博物館や京都でつとめた後、古社寺が所蔵する文化財の模写に従事した。明治32年林和靖の夢想に題材をとった作品を泉布観に出品して好評を博した。明治36年第5回内国勧業博覧会に上本松の西光寺から出品した。昭和3年、60歳で死去した。
大阪(109)-画人伝・INDEX
文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、上島鳳山と大阪の画家たち