画人伝・大分 南画・文人画家 山水・真景

日田の三絶僧・平野五岳

平野五岳「四季山水図(春景図)」大分県立美術館蔵

日田専念寺の僧・平野五岳(1811-1893)は、詩、書、画三分野すべてに傑出しているとして「三絶僧」と称された。詩は白楽天に私淑し、書を独学、画は田能村竹田の画法を研究した。画に関しては、田能村竹田の高弟に数えられることもあるが、五岳が南画を描きはじめた時には、すでに竹田は没しており、直接指導は受けておらず、竹田に師事した帆足杏雨や森秋艇らとの交流を通じて、竹田の画法を学んだと思われる。また、京都をたびたび訪れ、貫名海屋や前田暢堂をはじめとした多くの画人たちとも親交を持ち、幾度かの画風の転換をみせながら、次第に画技を深めていった。

五岳が生まれ育った日田地方は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に幕府直轄地となり、徳川幕府の体制下でも天領地として豪商たちを中心に発展した。九州の水陸交通の要所であるため商業活動も活発で、比較的封建色も薄いため自由な気風が育ち、多くの文人墨客や学者たちが訪れ、文教都市として発達した。

その文教の地を象徴するものとして、広瀬淡窓が設立した咸宜園がある。五岳は11歳で咸宜園に入塾し、その後客席に転じるまで5年間ここで学んだ。淡窓に同行することが多く、淡窓を中心とした日田の文化人サークルや淡窓を訪れる文人墨客らと接するなかで、豊かな人脈を形成するとともに、文人としての素養を育てていった。退塾後も咸宜園にはしばしば出入りしており、淡窓をはじめ、旭荘、青邨、林外と続く広瀬家との親交は晩年まで続いた。

明治期になると、日田県知事の松方正義をはじめ、松方を通して知り合った大久保利通や木戸孝允らが五岳の画を賞賛し、次第に中央でも画名が高まっていった。明治6年にはウィーン万国博覧会に出品、明治9年には大久保利通を通して明治天皇に画が献上された。明治14年に東京上野で開催された第2回内国勧業博覧会では、二等妙枝賞を受賞。このときは二等が最高賞で、五岳のほかの二等受賞者は、河鍋暁斎、滝和亭だった。

画名が上がり、西南戦争の時に戦場に赴く将校がわざわざ日田に立ち寄り五岳の作品を求めるほどになったが、詩画を余技と割り切り、弟子も取らなかった。富豪からの作画の要請は断り続ける反面、貧しいものには「私の書画で救われれば幸い」と喜んで揮毫するなど、生涯清貧のうちに風雅を楽しんだという。

平野五岳(1811-1893)
文化6年生まれ。日田専念寺の僧。旧姓は小松。名は岳、字は五岳、法名は聞耳。別号に竹邨方外史、古竹園主、古竹老衲、滴翠楼、知雨園、一笑会心処などがある。日田の正念寺に生まれ、8歳の時に専念寺・恵了の養子となり、同寺の第六代寺主となった。文政2年、養祖父・智英の紹介で広瀬淡窓の咸宜園に入塾、文政6年客席に転じるまでの約5年間学んだ。南画を描きはじめたのは天保末年ころからで、田能村竹田に私淑し森秋艇や帆足杏雨らと交流する一方、たびたび訪れた京都では貫名海屋や前田暢堂らと交わり、次第に画技を深めていった。明治6年にウィーンの万国博覧会に出品、明治9年には大久保利通より明治天皇へ画が献上された。明治26年、83歳で死去した。

大分(18)-画人伝・INDEX

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、平野五岳展、豊後の南画展、大分県立芸術会館所蔵作品選




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