帆足杏雨(1810-1884)は、最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人とされるが、その一方で、中国画学習を深め、自己の画技を進めていくなかで、独自の画風を確立した。天保9年以降はほとんど大分を離れることはなかったが、幕末から明治にかけて中央でも画名が高まり、嘉永元年に山水画二幅を天覧に入れ、明治6年にはウィーン万国博覧会にも出品している。
帆足は、臼杵領戸次市組(現在の大分市中戸次)の庄屋・帆足統度の四男として生まれた。生家は現在でも「帆足本家 富春館」として残っている。帆足家は当時の地方文化の担い手としての性格を持っており、一族で風流に親しみ、多くの書画を所蔵していた。田能村竹田は、京都・大坂に向かう旅の途中に、きまってこの富春館を訪れており、同家の家族と親しく交流していたという。
文政7年、帆足は正式に竹田に入門。2年先輩には高橋草坪がいた。帆足は竹田の方針で日田の咸宜園で広瀬淡窓に学び、日出の帆足万里にも師事した。文政11年には咸宜園を出て初めて京坂に遊び、大坂では兄弟子の草坪と同宿し、頼山陽、篠崎小竹、浦上春琴らと交遊、草坪とともに刺激的な日々を過ごし、画技を進めていった。
天保6年、師の竹田が大坂で死去し、杏雨は奔走して竹田の遺稿をまとめた『自画題語』を刊行した。この頃から中国画学習をさらに深めるようになり、自己の画法を大きく進展させ、以後杏雨の画は急速に師風を脱していく。弘化期になると、この傾向はさらに強くなり、杏雨独自の画法として定着した。
杏雨は多くの豊後の南画家たちに影響を与えたが、杏雨に直接学んだ画人は少なく、本格的に画人としての人生を送った者の多くは10歳代半ばのわずかな期間に杏雨の最晩年に学んだだけである。県内の主な門人としては、加納雨篷、甲斐虎山、首藤白陽、阿部梅處らがいる。
帆足杏雨(1810-1884)
文化7年戸次市組生まれ。名は遠、字は致大、通称は熊太郎。別号に聴秋、半農道人などがある。代々酒造を営む庄屋の四男で、教養人に囲まれた高い文化的環境に育った。幼いころからたびたび生家・富春館に立ち寄る田能村竹田と接し、絵を好んで描いた。文政7年、15歳の時に正式に竹田に入門し、以後、直接・間接的に画技を学び、浦上春琴の教えも受けた。また、日田の広瀬淡窓、日出の帆足万里について学問を深め、のち頼山陽、篠崎小竹ら上方の文人墨客と交わるなかで、幕末から明治期にかけて画名が高まった。竹田の正統な後継者として杏雨に影響を受けた画人は多く、豊後南画の隆盛に貢献したひとりである。明治17年、74歳で死去した。
大分(15)-画人伝・INDEX
文献:大分県の美術、帆足杏雨展、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選