抱亭五清(不明-1835)は、葛飾北斎の門人で、北斎の下絵を描いていたとされる。当時、北斎門下の絵師たちは腕のたつものばかりだったが、そのなかでも際立った存在が抱亭だったという。抱亭は、狂歌作家を紹介する『狂歌画像作者部類』に作家172人の肖像画を描くなど、当時すでに人気浮世絵師だったと思われるが、文政改元の直後、忽然と江戸から姿を消した。
一説には、女性問題で北斎に破門されて江戸を離れた、とされるが確証はない。ただ、この時期抱亭は、師由来の号「北鵞」を「五清」に改めており、画風も一変させている。この改号と画風の急激な変化から破門の噂が流れたと思われるが、詳しい経緯は不明である。
そして再び抱亭が姿を現したのは、信州松本だった。当時、松本では狂歌や俳諧が流行しており、抱亭の名も狂歌を通じて知られていたと思われ、その縁でこの地を訪れたと推測される。そのきっかけとなったのは、本の仕入れで江戸によく出ていた本屋の高美甚左衛門と思われ、高美の日記には抱亭のことがしばしば出てくる。
高美の日記の記載から、抱亭は文政2年に松本を訪れ、16年間をこの地で過ごし、松本で没している。その間、松本の商家や地主の求めに応じて多くの作品を描き、屏風など大作も残している。享年は不明だが、最晩年の作品「美人花生け図」の落款に「六十七歳」の記載があることから、享年はこの年齢からあまり遠くないと推測される。
抱亭五清(不明-1835)ほうてい・ごせい
本姓は砂山。名は金蔵。はじめ北鵞、のち方亭、抱亭と号した。砂山を画姓にし、青々、東一とも号している。江戸の横山町三丁目に住んでいたが、信州松本の生安寺小路に移り住み、同地で没した。松本の書肆、高見甚左衛門日記の文政2年9月29日の項には「江戸画工北鵞改五来ル」とあり、初代北鵞改め五清と号したとある。はじめ師北斎の影響を受けた摺物や版本の挿絵を描いたが、一説に破門され、文化7年頃に改名して以降は、肉筆美人画に独自の様式を展開した。天保6年死去した。
長野(13)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、松本平の近代美術