画人伝・三重

伊賀の画人

伊賀出身の文人としては、全国的に名高い俳人の松尾芭蕉(1644-1694)、江戸中期の俳人・菊岡沾凉(1680-1747)、江戸後期の歌人・田山敬儀(1766-1814)らがいて余技に画をたしなんだが、画人としては狩野山楽に師事した上西山徳、曾我蕭白と交遊した成瀬古仙、岡田米山人に師事した築山楽山をはじめ、池田雲樵、三村竹山、譽田歴山、立入快堂らがいて、藤堂家に仕えた武士が多い。ほかには浦上春琴に師事した筒井永年らがいる。

上西山徳(1619-1697)うえにし・さんとく
元和5年伊賀上野生まれ。名は正勝、字は宗牧、通称は庄五郎。別号に山遊がある。狩野山楽について画を学び、画を以って藤堂家に仕えた。元禄10年、79歳で死去した。

成瀬古仙(不明-1809)なるせ・こせん
享保年代伊賀上野生まれ。藤堂家の重臣。性格は洒落で奇行が多かったという。羽衣と名付けた空中飛行機を作り月夜に乗じて飛行させて人々を驚かせ、藩主の叱責を受けて減禄させられたこともある。文学に長じ書画をよくし、画は曾我蕭白と交遊してその筆意を受けたといわれる。文化6年死去。

築山楽山(不明-1837)つきやま・らくざん
伊賀上野の人。名は穣、諱は玄厚、通称は平野屋忠右衛門。別号に米園、平穣、平彦などがある。幼い頃から画を好み、岡田米山人に師事して一家をなした。特に山水を得意とした。篆刻もよくし、文人墨客との交遊も広かった。天保8年死去。

筒井永年(1817-1856)つつい・えいねん
文化14年伊賀上野生まれ。幼名は鹿之助。幼くして画才があり、浦上春琴の門に入って画を学び、その秘法を得たという。そのため無款のものは春琴の作と間違えられるほどだったが、永年は名を売ることを好まなかったという。安政3年、39歳で死去した。

神田耕雲(1817-1888)かんだ・こううん
文化14年伊賀上野生まれ。諱は通成、通称は禮之進。詩文をよしく、画も巧みで、特に画法に詳しかった。明治21年、72歳で死去した。

三村竹山(不明-1904)みむら・ちくざん
伊賀上野生まれ。のちに津に移り西堀端町に住んだ。名は武、諱は忠得、通称は郷右衛門。書を以って藤堂侯に仕えた。画は叔父の神田耕雲に学んだ。多くの文人と交遊し、当時京阪の文人雅客で伊勢に来たもののほとんどが竹山を訪ねたという。明治37年、80歳で死去した。

富山方亭(1820-1870)とやま・ほうてい
文政3年阿山郡柘植村に生まれ上野町に住んだ。名は謹、字は子温、通称は保定。別号に水哉亭古堂がある。医学を京都の中尾東龍の門に学び、のちに長崎で蘭学を修めた。医業のかたわら詩歌を好み、画もよくした。明治3年、51歳で死去した。

池田雲樵(1825-1886)いけだ・うんしょう
文政4年伊賀山田郡喰代村生まれ。名は政敬、字は公維。別号に半仙がある。幼い頃から画を好み、内海雲石、前田暢堂、中西耕石に画を学び、斎藤拙堂について詩文を修めた。画をもって藤堂家に仕えた。明治維新後は京都に移り住み、明治12年に京都府立四宗画学校が設立されると南宗画の教授となった。全国絵画共進会などの展覧会でもたびたび受賞した。明治19年、62歳で死去した。

清水山(不明-不明)しみず・けんざん 
文政中の人。藤堂歸堂の奮臣で家老の職にあった。南蘋風の画をよくし花鳥山水いずれも巧みだったという。その子・謙斎、孫・謙堂もみな画をよくした。

清水謙堂(不明-不明)しみず・けんどう
近代の伊賀の人。津藩士。通称は兼三郎、祖父は清水山、父は謙斎。三代にわたって画をよくした。

譽田歴山(不明-1966)よだ・れきざん
伊賀上野町の人。幼名は仙吉で、のちに隠居して茂樹と改めた。別号に金鉉堂がある。家は代々道具及び屏風を業として、歴山はその四代目で、家名は仁兵衛。多芸で業務のかたわら画を描き、彫刻をし、和歌もよくした。明治41年、69歳で死去した。

立入快堂(不明-不明)たちいり・かいどう
近代の伊賀の人。名は奇一、はじめ上西庄五郎と称した。痴堂と号していたが、病気がちで薬が手放せなかったため、ある人に号に起因するのではないかと指摘され、すぐに快堂に改めたという。代議士になったことがあり、余技で画を描いたという。

三重(10)画人伝・INDEX

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳




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