画人伝・京都 土佐派・大和絵系

土佐派第四世代として長期にわたり活躍した土佐広周

土佐広周「天稚彦草紙絵巻」(部分)ベルリン東洋美術館蔵

土佐広周「天稚彦草紙絵巻」(部分)ベルリン東洋美術館蔵

土佐派は15世紀前半に3つの工房に分岐し、土佐派第四世代の絵師としては、六角絵所の六角益継(不明-不明)、春日絵所の土佐光弘(不明-不明)、土佐行広の工房を継いだ土佐広周(不明-不明)の3名が主要な存在で、光弘、益継の順で絵所預に任じられた。

彼らのなかで最も長期にわたって活躍し、次世代との橋渡しをしたのが土佐広周で、15世紀半ばから後半にかけて足利将軍家や朝廷周辺での絵画制作が記録されているが、現存作例として確実なものはベルリン東洋美術館収蔵の「天稚彦草紙絵巻」のみである。

「天稚彦草紙絵巻」は、七夕伝説を描いた絵巻で、天稚彦という天界の貴公子に天会で再会した姫が、恐ろしい鬼である天稚彦の父に次々と難題を出されるというもの。現存しているのは下巻のみで、上記掲載部分は、姫が千石の米を蔵に運ぶように鬼から命じられた場面で、たくさんの蟻が出てきて姫を手伝っている様子が描かれている。次々と難題を乗り越えた姫に鬼は年に1度天稚彦に逢うことを許す。鬼が投げた瓜は割れて天の川となり、2人は年に1度、7月7日に逢うこととなった。

土佐広周(不明-不明)とさ・ひろちか
土佐行広の子とみられる。出家して経増と名乗った。文政5年頃成立の「天稚彦草紙絵巻」が知られる。このほか記録上では、文明11年に子の行定とともに「栂尾明恵上人絵二巻」を描いたとされる。

土佐光弘(不明-不明)とさ・みつひろ
藤原行秀の子で土佐光信の父とみられる。嘉吉3年ころ絵所預となった。唯一の作例として永享8年の奉納銘が記された滋賀県白山神社の「三十六歌仙図扁額」がある。

六角益継(不明-不明)ろっかく・ますつぐ
六角寂済の後継者とみられ、六角絵所を継ぎ、絵所預をつとめた。宝徳3年に「十二類合戦絵巻」と同主題の絵巻を手掛けた記録がある。また、寛正3年には義政の東寺御成に際して扇絵を制作し、代価の受け取りを記した自筆書状が『東寺百合文書』に所収されている。

京都(44)-画人伝・INDEX

文献:室町時代のやまと絵、日本絵画名作101選、やまと絵日本絵画の原点、日本美術全集9、もっと知りたいやまと絵、日本画家人名事典




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