和田雪観(1706-1777)は、能勢探龍よりも4歳年下の木村探元の門人のひとりで、木像を造るなど彫刻もよくした。また、示現流や常陸流剣法の達人で、作風は、武人らしく豪快な筆法が特徴とされる。
雪観の他に、等鉄、等舟などの別号を使っていることなどから、雪舟等楊や秋月等観を敬慕していたと考えられている。雪観の作品「蓬莱山」(掲載作品)の構図が、秋月筆とされる「三福人図」とほぼ同じであることからも、そのことが推察される。蓬莱山は中国で伝説化された不老不死の理想郷で、仙人が住むといわれている。日本では、神仙思想の普及とともに、絵画の題材として描かれるようになった。
雪観の子に和田助堅(1737-1807)がいる。父に学んで剣法もよくしたという。木村探元が雪観に宛てた書状のなかで、助堅についても触れていることから、助堅も探元に学んだ可能性が高いとされる。
和田雪観(1706-1777)
宝永3年田布施村生まれ。諱は助豪、のちに助員と改めた。通称は源太兵衛。別号に玉巌、等鉄、等舟、寒松軒などがある。絵を木村探元に学び、彫刻もよくしたとされる。9歳の時に柏原市右衛門に示現流の剣法を学び、田中傑山に常陸流剣術を学び皆伝を受けた。また、信証院君と信解院君の両肖像を造ったとされる。『白鷺洲』には、雪観の富士山図や山水図に冷泉為村が和歌を書き加えたものがあると記している。安永6年、72歳で死去した。
和田助堅(1737-1807)
元文2年生まれ。通称は六郷左衛門。和田雪観の子。父から絵と常陸流剣法を学んだ。書簡などから晩年の木村探元からも絵の手ほどきを受けた可能性が高い。作品としては、加世田市の竹田神社に「井尻神力坊図」が残っている。また、良英寺に安置されていた妙心院の肖像を造ったともいわれており、彫刻も手がけていたと思われる。文化4年、71歳で死去した。
鹿児島(13)-画人伝・INDEX
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