画人伝・茨城 日本洋画の先覚者 宗教画

日本初のイコン画家・山下りん

左:山下りん「主ノ入城(エルサレム入城)」、右:山下りん「聖神降臨(至聖三者の主日)」

常陸国笠間藩(現在の茨城県笠間市)の笠間藩士の家に生まれた山下りん(1857-1939)は、15歳の時に嫁入り話を嫌って家出して上京、一度は連れ戻されたが、家人を説得して再び上京し、浮世絵や日本画を学んだのち、明治8年、洋画家の中丸精十郎に師事した。

明治9年日本初の美術学校である工部美術学校が設立されると、山下の師である中丸が入学、翌年には女子の入学も認められたため山下も同校に入学し、イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに西洋絵画技法を学んだ。この頃、同級生の山室政子の勧めで、正教会の洗礼を受け、聖名イリナを授けられた。

工部美術学校では6名の女子学生のうち、トップの成績だったが、明治13年に同校を中退した。同年ロシアで聖像画家になるためイコン画法を学ぶ予定だった山室が結婚のため留学を断念したため、その代わりにロシアに渡り、ペテルブルク女子修道院でイコン画法を学ぶとともに、美術館で西洋絵画の模写をするなどしていたが、体調を崩したため、5年の予定を2年で切り上げて明治16年に帰国した。

帰国後は、神田駿河台の日本正教会・女子神学校の2階にアトリエを構え、ニコライ大主教のもと、日本の正教会のために日本のイコンを描き続けた。明治45年、敬愛していたニコラス大主教が亡くなると、時を同じくして山下も目を患うようになり、大正6年に勃発したロシア革命の翌年には故郷の笠間に帰り、以後没するまでイコンや洋画を描くことはなかった。

山下の画法は、イコンの伝統的制作方法である板にテンペラではなく、主にカンヴァスに油彩の西欧風イコンで、西ヨーロッパ絵画の影響を強く受けた19世紀後半のロシア・イコンを色濃く反映している。宗教画という範疇のため美術史的に取り上げられることは少なかったが、近年調査研究が進むとともに関心が高まっている。

山下りん(1857-1939)やました・りん
安政4年常陸国笠間生まれ。笠間藩士の娘。文久3年、7歳の時に父を失い、15歳の時に農家に嫁に出される話があったため家出して上京した。一度は連れ戻されたが、翌年は家人を説得して、浮世絵、日本画を学び、明治8年、西洋画の中丸精十郎入門した。明治10年工部美術学校に入学、フォンタネージに師事した。フォンタネージ帰国後はサン・ジョヴァンニに師事するが、指導に満足せず明治13年に退学。同校在学中の明治11年にハリストス正教の洗礼を受け、明治13年同窓の山室政子の代わりにロシアに渡り、ペテルブルグ女子修道院に入りギリシア正教の聖画を本格的に学んだ。エルミタージュ美術館でローマ・カトリックの作品を模写したことが同修道院内で問題となり、体調も崩したため明治16年に帰国、その後は神田駿河台教会(のちのニコライ堂)内に住み、以降全国のハリストス正教会の聖画を描いた。大正7年故郷の笠間に帰り、以後イコンや洋画を描くことはなかった。昭和14年、81歳で死去した。

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文献:ロシアのこころ・イコン展、茨城の美術史




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