1799(寛政11)年、異国船が頻繁に接近する蝦夷地の情勢に危機感を募らせた江戸幕府は、180人に及ぶ大調査団を蝦夷地に派遣した。この調査団に、のちに代表作『蝦夷島奇観』を著す村上島之允(1760-1808)が測量士として参加していた。村上の主な仕事は、工程の記録や方位の測地で、村上はこの調査旅行に基づいて『松前考』を完成させ、これが『蝦夷島奇観』の原典となった。村上は、3度の幕府の蝦夷地調査に参加し、その後も江戸と蝦夷地を往来して地図制作や農地開発に携わった。
代表作である『蝦夷島奇観』は、全118図からなり、アイヌの伝説や生活習慣(儀礼、狩猟、家屋、民具など)、動植物の写生図、樺太や周辺諸島、和人地の様子などが、礼部、居家部、狩猟部などの項目別に掲載され、大部分の図が詞書を伴っている。また、文献を引用しながら蝦夷地の風俗を考証している。蝦夷地に関する書物や絵画は、18世紀初頭から登場しているが、その多くが蝦夷地の特異性を極端に誇張したものだった。一方、『蝦夷島奇観』は、植物学的な関心から制作された信憑性の高いものと評され、今なお、アイヌ民族の歴史文化の解明に欠かせない資料とされている。
村上島之允(1760-1808)
宝暦10年伊勢国宇治山田生まれ。神職にゆかりのある家に育った。本名は秦檍麿、幕吏として村上島之允と称した。画歴は不明だが、書画をよくし健脚で地理に詳しかったため、幕府による各地の検分や地誌、地図の制作によく起用されたという。寛政10年春から秋にかけての幕府の大規模な蝦夷地調査に同行し、松前から函館、襟裳岬から釧路、根室、クナシリ島、エトロフ島の調査を行ない、『蝦夷島奇観』を著した。国学者・本居宣長の高弟・萩原元克と親交し、谷文晁や太田南畝ら文人とも交流があり、「青木丸」の名で狂歌を詠んだ。門弟に北方の探検と調査で知られる間宮林蔵と養子の村上貞助がいる。蝦夷地の風俗や器物をさらに詳述するため『膃肭臍図説』『蝦夷鬚髪図説』などを著していたが、文化5年、流行性の病のため49歳で死去、完成はならなかった。
北海道(9)-画人伝・INDEX
文献:「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術、描かれた北海道