青柳琴僊(1867-1962)は、月夜野(現在の群馬県利根郡みなかみ町)の農家の長男として生まれた。6歳頃から父について読書、算術を学び、10歳頃から絵を描きはじめ、13歳で林青山の門に入り「燕山」と号した。17歳の時には月夜野小学校教員として教鞭をとるようになった。
18歳の時にたままた目にした児玉果亭の絵に魅せられ、信州渋温泉の果亭のもとで絵を学ぶ決意を固め、明治18年から毎年、春から秋にかけて上州で農業に精を出し、秋の終わりから春先にかけての農閑期に月夜野から渋温泉の果亭のもとに通った。冬の間は渋温泉の宿屋「つばたや」に泊まって絵を学び、春の雪解けとともに上州に帰る生活を20数年間続けた。
明治43年、45歳の時に渋温泉に永住することを決意し、果亭邸の近くに移住した。しかし、その2年後に果亭が病のため没したため月夜野に帰郷しようとしたが、渋温泉の人々が強く引きとめたため、画室「栩然山房」に残り、師のあとを継いで後進の指導にあたった。
渋温泉での暮らしは31年に及び、70代半ばになった琴僊は、故郷月夜野に帰る決意をし、昭和17年、75歳の時に帰郷した。月夜野に帰った琴僊は、自宅に画室「玉兎山房」を構え、悠々自適で謙虚な生活を送り、郷里の知人や近隣村から頼まれれば思うままに筆をとったという。
青柳琴僊(1867-1962)あおやぎ・きんせん
慶応3年利根郡月夜野生まれ。農業を営む青柳国助の長男。本名は金之助。別に燦、子章と名乗った。13歳で林青山に師事して燕山と号し、18歳の時に児玉果亭に師事、「玉兎村荘琴僊」と名乗った。信州渋温泉に20余年通ったのち、明治44年信州渋温泉に移住。昭和17年、75歳で帰郷した。日本美術協会や大阪南画会に所属し、シカゴ博覧会などに出品した。昭和37年、95歳で死去した。
群馬(14)-画人伝・INDEX
文献:上信州に生きる 青柳琴僊、上毛南画史、利根沼田の人物伝、群馬県人名大事典