上野国碓氷郡土塩村(現在の群馬県安中市松井田町)に生まれた風外慧薫(1568-1654頃)は、幼いときに近くの禅寺に預けられたのが縁で禅僧となり、子持村(現在の渋川市)の雙林寺で長く修業をつんだ後、諸国行脚の旅に出た。禅画を習ったのはその折だったと思われる。長い旅の末に相模国成田(小田原市成田)の成願寺の僧になったのは、50歳前後の時だったと思われる。
成願寺でしばらく僧をしていたが、寺の雑事が煩わしくなったのか、寺を離れ上曽我(現在の小田原市上曽我)の洞窟に住み、托鉢生活を送りながらの穴居は10年に及んだ。その後、真鶴(現在の足柄下郡真鶴町)の海辺の堂へと居を移し、この地で60歳頃から20年ほど過ごし、座禅三昧の日々を送り、達磨や布袋などの墨画を数多く描いている。
慶応4年頃、名声を伝え聞いた小田原城主・稲葉正則が風外を城に招いたが、それを拒否して伊豆山中に逃げ込み行方をくらましたが、その後しばらくして伊豆国原木村(現在の静岡県田方郡韮山村)の竹溪院に現われた。その3年後には遠江国石岡村(現在の静岡県引佐郡細江町)に移ったが、ここで天命が近いことを悟り、庵に近い金指村(静岡県引佐郡細江町)の地内に穴を掘らせて自らを埋め、そのなかで立ち姿のまま没したと伝わっている。87歳だったとみられる。
風外慧薫(1568-1654頃)ふうがい・えくん
永禄11年上野国碓氷郡土塩村(現在の松井田町)生まれ。幼いときに近くの曹洞宗乾窓寺に預けられたのが縁で、天正初期に碓氷郡後閉村(安中市)の長源寺で仏門に入り、天正11年頃には子持村の雙林寺に入り長い修業の末、慶長元年頃諸国行脚の旅に出た。禅画を習ったのはその折とみられる。元和4年頃相模国成田村(小田原市)の成願寺の住職になったが、檀家総代と不仲となって寺を離れ、寛永元年頃から上曽我の洞窟で穴居を始めた。以後、座禅と托鉢と画業という生活を続けた。10年の穴居ののち、真鶴の海の近くに庵を結んで、60歳頃から20年ほど住んだ。寛永5年真鶴に天神社を勧請。慶安4年頃に小田原城主が名声を伝え聞いて城に招請したがそれを拒否して行方をくらませ、やがて豆州原木村(静岡県田方郡韮山村)の竹溪院に現われた。3年後には遠州石岡村(静岡県引佐郡細江町)に移ったが、ここで天命の近いことを悟り、庵に近い金指村(静岡県引佐郡細江町)の地内に穴を掘らせて自らを埋め、この地で没した。承応3年頃、87歳だったとみられる。
群馬(1)-画人伝・INDEX
文献:群馬県人名大事典、風外慧薫-野に生きた禅僧画家