横山華山(1781or1784-1837)は、江戸時代後期に京都で活躍した絵師で、画派に属さず、題材に合わせて自在に筆を操る自由な画風で人気を博した。一般に京都生まれとされているが、近年になって越前出身説が有力になってきた。
華山の生家は曾我蕭白と交流があり、華山は幼い頃から蕭白の作品に親しみ、独学で画を学んだと思われる。のちに岸駒に師事し、その後も呉春に私淑するなど多くの流派の画法を身につけ、西洋画も学んで独自の画風を打ちたてた。
その自由な画風は江戸の絵師たちにも大きな影響を与え、名声は当時日本中に広がっていたと伝わっている。華山没後も子の横山華渓(1815-1864)や小澤華嶽(不明-不明)、中島華陽(1813-1877)といった門人たちによって画風は受け継がれ、横山派として京都画壇のなかで独自の地位を築いた。
横山華山(1781or1784-1837)よこやま・かざん
天明元年(または天明4年)生まれ。名は暉三、または一章。字は舜朗、通称は主馬。京都の横山家の養子となり、画を岸駒に学んだとされるが、呉春、曾我蕭白などの諸名家や、西洋画も学んだと思われる。画は人物を得意とした。また、若狭高浜の出身である華渓が華山の養子となり、同じく画人として京都で活躍した。天保8年、54歳(または57歳)で死去した。
横山華渓(1815-1864)よこやま・かけい
文化12年若狭高浜生まれ。横山華山の養子。旧姓は中尾。名は信平、通称は主馬之助。初号は嵐山。養父華山と岸駒に学んだ。文久4年、50歳で死去した。
小澤華嶽(不明-不明)おざわ・かがく
紀伊生まれ。名は定信、通称は久米次郎。父は紀州藩組子同心。父の没後京都に出て横山華山に学んだとされる。華山門下の最古参で、人物山水画を得意にしたという。
中島華陽(1813-1877)なかじま・かよう
文化10年京都生まれ。名は重輔、字は質文、幼名は富三郎。皆春館富壽とも称した。横山華山に師事した。天保14年関東に遊歴し、日光東照宮廟の絵事をつとめたという。娘の達は富岡鉄斎の最初の妻。明治10年、65歳で死去した。
福井(11)-画人伝・INDEX
文献:桃山の色 江戸の彩 福井ゆかりの近世絵画、横山華山展