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佐土原の南画家・根井南華
2021/7/6
根井南華「風洩松聲静図」宮崎県立美術館蔵 根井南華(1883-1960)は、明治、大正、昭和にかけて活躍した佐土原の南画家である。南画の盛んな延岡から宮崎に移り住んでいた鈴木月谷に師事し、さらに佐藤小 ...
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すぐれた書画を残した高鍋藩秋月家十一代・秋月種樹
2021/7/6
秋月種樹「曾経御覧」高鍋町歴史総合資料館蔵画面上部に押されている曾経御覧の方印は、「かつて天皇がご覧になった」という意味 高鍋藩十代藩主・秋月種殷の弟でのちに養子となった秋月種樹は、幕末に外様大名とし ...
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変わり者として知られた延岡の南画家・四屋延陵
2021/7/6
四屋延陵「鏡湖独往図」延岡市内藤記念館蔵 変わり者として知られた四屋延陵は、延岡藩の名門に生まれ、江戸で画を学び、その後は国内外を転々とした。彫刻にも巧みで、他人の家を訪れるとすぐにその家の盆に彫刻を ...
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近代延岡における南画家の第一人者・小泉二山
2021/7/6
小泉二山「山水図」宮崎県立美術館蔵 江戸後期から南画が盛んに描かれるようになった延岡では、明治期になると小泉二山が出て人気を博し、近代延岡における南画家の第一人者と称された。二山は延岡で鈴木月谷に学ん ...
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延岡藩の南画家・岡部南圃
2021/7/6
岡部南圃「百花百鳥図」延岡市内藤記念館蔵 延岡藩の最初の御用絵師・佐藤周鱗斎は狩野派だったが、その後の延岡の絵師は、周鱗斎の子の佐藤竹皐、孫の佐藤小皐をはじめ、そのほとんどが南画を学んでいる。延岡藩が ...
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大正・昭和期に活躍した大分県の南画家
2021/7/6
甲斐虎山 大正・昭和期に活躍した大分出身の南画家としては、早い時期から活動を始めていた十市王洋をはじめ、京都画壇で南画の復興に尽くした田近竹邨、東京で真美会を舞台に力を発揮した甲斐虎山、加納雨篷、白須 ...
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豊後大野で江戸系南画を描いた石野玉僲
2021/7/6
石野玉僲「群仙図」 石野玉僲(1883-1949)は、福岡県の出身だが、金光教の布教のために訪れた大分県の久住町や大野町に長く住み、大野町の金光教教会長として活動を続けるとともに、江戸系の南画を描いた ...
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官展、日本南画院展で新しい南画を模索した幸松春浦
2021/7/6
幸松春浦「老子」 田近竹邨らが創設した日本南画院の第1回展に出品した南画家に、大分市出身の幸松春浦(1897-1962)がいる。春浦は、官展に出品するとともに、日本南画院が解散する昭和11年まで毎回出 ...
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衰退する南画の復興をはかり日本南画院を創設した田近竹邨
2021/7/6
田近竹邨「春雲・秋靄」第8回文展出品 大分県立美術館蔵 江戸後期から全国的な流行をみせた南画だったが、明治中頃になると急速に衰えていった。その要因としては、南画理解に不可欠な漢詩の素養が、時代の推移と ...
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杵築南画の創始者・十市石谷と十市家
2021/7/6
十市王洋「浅絳山水図」大分県立美術館蔵 杵築の十市家は、杵築南画の創始者と称される十市石谷(1793-1853)をはじめ、子の王洋・古谷、及びその子たちも画をよくした。杵築藩家臣の家に生まれた十市石谷 ...
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日田の三絶僧・平野五岳
2021/7/6
平野五岳「四季山水図(春景図)」大分県立美術館蔵 日田専念寺の僧・平野五岳(1811-1893)は、詩、書、画三分野すべてに傑出しているとして「三絶僧」と称された。詩は白楽天に私淑し、書を独学、画は田 ...
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竹田門の四天王のひとりに数えられた博学者・後藤碩田
2021/7/6
水墨画山水「後藤碩田」大分県立美術館蔵 後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら ...
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南画の復興と後進の指導に尽力した田能村直入
2021/7/6
田能村直入「竹渓幽客図」大分県立美術館蔵 田能村直入(1814-1907)の叔父・渡辺蓬島は田能村竹田の初期の師のひとりということもあり、直入は幼いころから画に強い興味を示していて、9歳で竹田に師事し ...
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最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人・帆足杏雨
2021/7/6
帆足杏雨「雪景山水図」大分県立美術館蔵 帆足杏雨(1810-1884)は、最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人とされるが、その一方で、中国画学習を深め、自己の画技を進めていくなかで、独自の画風を ...
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竹田門下の夭折の鬼才・高橋草坪
2021/7/6
高橋草坪「寒江独釣図」大分県立美術館蔵 田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門 ...
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耶馬溪の名付け親・頼山陽と豊前中津青村の曽木墨荘
2021/7/6
頼山陽「耶馬溪図巻 長巻」(部分)1829年頼山陽が初めて耶馬溪を訪れて描いた耶馬溪図巻は焼失してしまったため、残っていたデッサンをもとに、その10余年後に改めて描かれたもの。この大作には記文と詩を新 ...