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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2024/10/14
片山北海(1723-1790)は、越後国に生まれ、京都で折衷学派の儒者・宇野明霞に師事した。明霞没後は招かれて大坂に移り、立売堀で孤松館を開塾した。門弟も多く、藩儒として請われることもあったが受けるこ ...
2025/1/13
木村蒹葭堂(1736-1802)は、北堀江瓶橋(現在の大阪市西区)で代々酒造業を営んでいた家に生まれた。通称を坪井屋吉右衛門といい、巽斎などと号したが、新造した書庫の名を「蒹葭堂」としたことから、蒹葭 ...
2024/10/9
福原五岳(1730-1799)は、備後国尾道(現在の広島県尾道市)に生まれ、京都に出て池大雅に学び、大雅随一の弟子と評された。その後大坂に移り大雅風を広め、大坂の南画壇隆昌の先鞭をつけた。人物画に秀で ...
2024/10/7
趙陶斎(1713-1786)は、来泊清人と花魁との間に生まれたとされ、幼いころ父母と死別し、長崎で竺仙禅師について出家し黄檗僧となった。宇治の萬福寺を経て、江戸で十数年を過ごしたのち、大坂の塩町(現在 ...
2024/10/4
葛蛇玉(1735-1780)は、はじめ橘守国と鶴亭に師事し、その後宋元の古画を研究した。鯉を好んで描き、鯉翁と呼ばれたという。残っている作品は少なく、山水図は掲載の「山高水長図」のみである。風流閑雅な ...
2024/10/2
泉必東(不明-1764)は、清人銭氏の子孫と伝わっており、『要略』では銭必東と記されている。幼少の頃から画を好み、諸国を遊歴して画技を磨き、特に沈南蘋の影響を受けて山水花鳥を得意とした。また、書法を新 ...
2024/9/30
佚山(1702-1778)は、俗名を森脩来といい、出家して天王寺東門の黄檗宗見友寺に住み、佚山と名乗った。篆刻を得意とし、大坂で篆刻・隷書で名を成した新興蒙所の流れを汲み、趙崔光の説文長箋を研究した。 ...
2024/9/27
西山芳園(1804-1867)は、本町辺りの木綿問屋に生まれ、幼い頃つとめていた奉公先で画を描くことを勧められ、大坂琳派の中村芳中に師事した。師の「芳」の一字をもらい「芳園」と号したが、その後芳中の紹 ...
2024/9/25
上田公長には、子の公圭をはじめ多くの門人がいたが、詳しい経歴が伝わっているものは少ない。門人のひとりである浦川公左(佐)は、公長に画を学び、山水人物を得意とし、嘉永頃に活躍したと伝わっている。 公左( ...
2024/9/23
上田公長(1788-1850)は、大坂船場の木綿問屋6代目・阿波屋忠次郎の長男として生まれ、天保頃は南久太郎町に住み、嘉永頃は道修町で暮らした。『上田公長正伝』によると、中井藍江に師事して四条派の写生 ...
2024/9/20
佐藤魚大(不明-不明)は大坂の人で、呉春に学んで一家を成し、山水人物を得意とした。子にはともに画人の保大と守大がおり、保大は父の号を継いで二代魚大となり、明治期にも活躍した。守大はその弟とみられ、父兄 ...
2024/9/18
葛野宜春斎(1771-1819)は、摂州池田(現在の大阪府池田市)の酒造業の家に生まれ、その頃池田に寓居していた呉春に師事した。呉春に学んだ期間は短かったと思われるが、のちに応挙画風を加味した作品を残 ...
2024/9/16
上田耕夫(1759-1831or1832)は、摂州池田の人で長く京都に住み、文政後半頃に家族とともに大坂に引っ越したと思われる。京都に出たのは叔父の大徳寺無学和尚に学問を教わるためだった可能性が高い。 ...
2024/9/13
近世大坂画壇で森派の森徹山と同時期に活躍した写生派の画家としては、四条派の長山孔寅がいる。孔寅は秋田の人で、京都に出て呉春に画を学びその後大坂に移った。田能村竹田にその写実性を賞賛されたといい、竹田の ...
2024/9/11
森二鳳(1818-1891)の生涯は不明な点が多いが、森一鳳に学んだと思われる。商売繁盛を意味する滑稽な「稲荷狐図」(掲載作品)や、人間臭い「鶴図」を描くなど、大坂らしい図様を用いていることなどから、 ...
2024/9/11
森派二代目となった森徹山には4人の実子がいたが、男子2人は妻の実家である京仏師田中家の養子となり森家は継がず、門人の森一鳳(1798-1871)が、娘2人のうちのひとり柳の婿養子となり三代目を継いだ。 ...