- UAG美術家研究所HOME >
- yuagariart
yuagariart
江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/7/9
幕末から明治維新期には新しい日本を目指した勤王の志士たちが多く登場した。彼らは学術、武術を学ぶとともに多くの書画を残している。土佐勤王党の盟主だった武市瑞山(1829-1865)は、徳弘董斎に南画を学 ...
2024/12/14
河田小龍(1824-1898)は、様々な絵画様式や技法を会得して南北合流の画人と呼ばれた。知識人としても広く活躍し、アメリカから帰国したジョン万次郎の取り調べに立ち会い、万次郎の異国での体験を『漂巽紀 ...
2021/7/9
土佐の人ではないが、幕末から明治にかけて土佐に来て影響を与えた画人に、種田豊水と名草逸峰がいる。種田豊水は長門国(現在の山口県)に生まれ、小田海僊に学び旅絵師となり、蒔絵を土佐に伝えた。華やかな花鳥画 ...
2021/7/9
壬生水石(1790-1871)は、寛政2年城下唐人町に生まれ、大坂や江戸で兵学、儒学などを学び、天保3年には与力職になった。篆刻を本格的に学び全国にその名が知られ、「土佐の印聖」と称された。また、書画 ...
2021/7/9
橋本小霞(1813-1879)は土佐藩徒士の家に生まれ、父の跡を継いで徒士となり、藩主の参勤に従ってたびたび江戸に上がった。江戸では徳弘董斎と同じく春木南湖に学び、蘭竹画を得意とした。楠瀬大枝のもとで ...
2021/7/9
徳弘董斎(1807-1881)は、御持筒で南画をよくした徳弘石門(1777-1825)の長男として生まれ、土佐藩に西洋流砲術をもたらした。龍馬や龍馬の兄・権平ら多くの門人に砲術を教えている。父の影響で ...
2021/7/9
楠瀬大枝門下で、徳弘董斎、橋本小霞とともに南画の三名家と謳われた古屋竹原は、文政から天保にかけて土佐の南画家の中心的存在だった。当時の須崎では、南画をもって聞こえた医者の古屋竹原に、書家の下元西洲と僧 ...
2021/7/9
楠瀬南溟の子・楠瀬大枝(1776-1835)は、国学者の道に進んだが、父の門人である松村蘭台を敬慕し、独学で画を研究、土佐の化政画壇の中心人物となった。大枝の門からは三名家と謳われた古屋竹原、徳弘董斎 ...
2021/7/9
中山高陽亡き後の土佐の南画は、大坂に出て木村兼葭堂、福原五岳ら池大雅系の文人たちと交流した楠瀬南溟(1743-1790)にはじまり、門人の松村蘭台、子の楠瀬大枝らがその流れを引き継いだ。松村蘭台は楠瀬 ...
2021/7/9
近世土佐を代表する南画家として中山高陽(1717-1780)がいる。高陽は日本南画の草創期、京都で彭城百川に画を学んだのち、42歳の時に狩野派が全盛を誇る江戸に出て、詩書画の世界に独自の境地を切り開き ...
2021/7/9
駿河台狩野家に学んだ土佐の画人として、柳本洞素と同時代に活躍した宮田洞雪(1828-1897)は、駿河台狩野八代・狩野洞春陽信に師事したのち、諸国を遊歴している。明治17年のパリ万国博覧会には狩野派の ...
2021/7/9
柳本洞素(1838-1894)は弘瀬洞意(絵金)に学んだ後、江戸に出て駿河台狩野七代・狩野洞白陳信の門に入り、安政4年には土佐藩の御用絵師になった。山内豊範の御居間勤めを明治3年頃までつとめ、以後は町 ...
2024/12/11
絵金が創出した「芝居絵屏風」は、土佐の各地から集まった弟子や孫弟子たちによって幕末から昭和初期まで描き継がれた。それらは一括して「土佐芝居絵屏風」と呼ばれ、それらを描く弟子たちは各地で「絵金さん」と呼 ...
2024/12/11
江戸で駿河台狩野に学ぶ機会を得た、土佐の髪結いの息子・金蔵は、わずか3年で「洞意」の号を得て帰郷し、土佐藩家老桐間家の御用絵師をつとめた。腕もたち、人気にも恵まれた若き狩野派の絵師・金蔵は順調に画業を ...
2021/7/9
近世の土佐では、藩の御用絵師は狩野派がつとめ、知識人の間では南画が広まっていた。そのためか、その他の流派はきわめて少ない。記録にある画人としては、土佐光貞に学んだ滝口国成(不明-1848)が唯一の土佐 ...
2021/7/9
土佐藩の御用絵師・池添楊斎(1791-1841)は、弘瀬洞意(絵金)の師匠として知られている。池添家は代々絵を描いており、楊斎の養父・池添美光は江戸に出て駿河台狩野四代・狩野洞春美信の門に学び、藩の絵 ...