版画で世界的な活躍をすることになる棟方志功(1903-1975)だが、はじめはゴッホの「ひまわり」を見て感銘を受け、油彩画を描いていた。そして、21歳の時に油彩画家を志して上京。しかし、目標としていた帝展への落選が続くなか、次第に油彩画家としての自分に疑問を持ち始めるようになった。そんななか、版画家・川上澄生の作品と出合い、その叙情あふれる作品に大きな影響を受け、木版画こそが自らに適した表現であると確信するようになる。
版画家に転向した棟方は、版画雑誌「白と黒」に特集を組まれるなど、次第にその存在を知られるようになっていったが、大きな転機となるのは、昭和11年に国画会展に出品した「大和し美し」だった。この作品は、日本神話の英雄・ヤマトタケルの生涯をうたった佐藤一英の詩をモチーフにしたもので、スケールの大きさと奔放な造形が、民芸運動を主導していた柳宗悦や浜田庄司に激賞され、以後、民芸の人々の支援を受けるようになった。
昭和13年には「善知鳥」が第2回新文展で特選となり、官展で版画が特選をとった画期的な出来事として話題になった。また、海外でも高い評価を受け、昭和30年に第3回サンパウロ・ビエンナーレの版画部門で最高賞を受賞、翌年には第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの版画部門で大賞を受賞。日本を代表する美術家として不動の地位を獲得していく。
同じ青森県出身の小説家・太宰治(1909-1948)は、棟方との直接の交流はなかったが、「青森」という随筆のなかで、青森中学校時代に下宿先の近所にあった花屋に展示されていた無名時代の棟方の油絵を購入したことを明かしている。
棟方志功(1903-1975)むなかた・しこう
明治36年青森市生まれ。父は鍛冶職人で、小学校卒業後は家業の鍛冶屋を手伝った。大正9年青森地方裁判所の弁護士控所の給仕となり、仕事の合間に合浦公園などに写生に出かけた。大正10年小野忠明に雑誌「白樺」に掲載されたゴッホの「ひまわり」の原色版を見せられ感銘を受け、油彩画を描きはじめる。同年青森で松木満史、古藤正雄、鷹山宇一と4人で洋画グループ「青光画社」を結成。大正13年画家を志して上京、帝展に出品するが落選。翌年画家を目指して本格的に上京し、帝展に出品するが落選。大正15年には上京した松木満史と阿佐ヶ谷生活をはじめた。昭和3年第9回帝展に油絵「雑園」が初入選。同年下沢木鉢郎の紹介で版画家の平塚運一を訪ねる。昭和10年頃、詩人・蔵原伸二郎との親交が深まり、のちに蔵原を介して文芸評論家・保田與重郎、小説家・中谷孝雄、歌人・前川佐美雄ら日本浪漫派の文士たちとの交際が始まった。昭和11年国画会展の出品作「大和し美し」が日本民藝館の買い上げとなる。これが契機になり柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎らとの交流が始まった。昭和13年第2回文展出品作が官展の版画部門として初の特選となる。昭和14年「釈迦十大弟子」を発表。昭和17年初の随筆集『板散華』において「版画」を「板画」とすることを宣言。昭和20年富山県西砺波郡福光町に疎開。昭和26年再び東京に転居。昭和27年日本版画協会を脱退して下沢木鉢郎らと日本板画院を創設。昭和30年第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で版画部門最高賞受賞。昭和31年第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で国際版画大賞を受賞。昭和34年ロックフェラー財団の招きで渡米。昭和44年青森市名誉市民第一号となる。昭和45年文化勲章を受章した。昭和50年、72歳で死去した。
青森(39)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史