画人伝・京都 土佐派・大和絵系

淡い彩色で土佐派に新風を吹き込んだ土佐光信

土佐光信「清水寺縁起絵巻」巻中第1段(部分)重文 東京国立博物館蔵

土佐光信「清水寺縁起絵巻」巻中第1段(部分)重文 東京国立博物館蔵

土佐光信(1434?-1525?)は、土佐広周の嗣子で、土佐光弘の実子と思われる。光信に関する最も早い記録は、応仁の乱の直前、足利義政の室町邸における障子絵の制作に関するもので、その後、広周が後見役となり乱中に絵所預となった。乱後には衰退した土佐派を制度・作風の両面で立て直し、半世紀にわたってやまと絵師の頂点に君臨した。

光信は、格調高い仏画や肖像画を手掛ける一方で、絵巻においては平安・鎌倉期の濃彩主体の様式を大きく脱却し、漢画手法を取り入れた枯淡で存在感のある墨線を主体に、淡い絵具を重ねて描く新しい様式を打ち出し、やまと絵に新風を吹き込んだ。

現在、東京国立博物館に所蔵されている「清水寺縁起絵巻」は、京都・清水寺の草創と本尊十一面千手観音の霊験譚を3巻に描いたもので、永正17年(1520)頃までに完成したとされる。詞書を近衛尚通、中御門宣胤、三条西実隆ら公卿が染筆し、絵は光信と子の光茂が描いた。

この絵巻を描いた時の光信は80歳前後の最晩年で、光信が絵を主導し、子で30歳前後の光茂が一部の段を担当した。下描きの線が透けてみえるほどの薄塗りの淡いトーンでまとめ上げており、光信の画風がよく表れている。

土佐光信(1434?-1525?)とさ・みつのぶ
永享6年頃生まれ。姓は藤原。土佐系図では土佐広周の子となっているが、土佐光弘の子とされ、広周の弟か従兄弟にあたると思われる。はじめ父に画法を学び、のちに中国画を学びたいと思っていたがそれが果たせず、日本古来の粉本や名画によって研究し一家を成した。文明元年絵所預となり、丹波大芋庄を領知し、明応4年右近将監、従四位刑部大輔になった。三条西実隆らと親交を結び、その親しい関係は「三条西実隆紙形」からもうかがえる。のちに祖先の基光、曾孫にあたる光起とともに土佐の三筆と呼ばれた。娘の千代は狩野元信の妻。大永5年に92歳で死去したという説もある。

土佐光久(不明-不明)とさ・みつひさ
土佐光信の娘。別名は千代。狩野元信の妻とされ、狩野派が土佐派の画法を取り入れるきっかけとなった人物とされる。真筆は確認されていないが、伝土佐千代とする作品は出光美術館蔵の「源氏物語図屏風」などがある。

京都(45)-画人伝・INDEX

文献:室町時代のやまと絵、やまと絵日本絵画の原点、日本美術全集9、もっと知りたいやまと絵、日本美術絵画全集・第5巻、日本画家人名事典




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