漢方医の長女として大坂に生まれた野口小蘋(1847-1917)は、幼いころから書画の才能に恵まれ、8歳で四条派の絵師・石垣東山に手ほどきを受け、19歳の時に南画家の日根対山に師事し、明治元年頃には京都に出て「小蘋」と号して本格的に画を生業とした。
明治4年、25歳の時に上京し、その2年後には官命により皇后の御寝殿に草花図を8枚描くまでになった。明治8年、甲府の呉服商・大木家に滞在し、のちに嫁ぐ酒造業「十一屋」野口家の長男・正章らと交流した。
明治10年、31歳の時に滋賀県蒲生郡に本邸を構える酒造業「十一屋」野口家の正章と結婚し、翌年には娘の郁子(のちの小蕙)が生まれた。明治12年には醸造所と営業所がある甲府に移り住み、明治15年に一家で上京するまでの3年間を甲府で暮らした。
夫の正章は甲府の生まれで、明治5年にイギリスから輸入されていたバースビールの影響を受けビール醸造を企画し、横浜在住の米人・コブラントを甲府に招いてビールづくりを始めた。明治7年にビールに三ツ鱗の商標を付けて発売し、翌年の京都博覧会に出品して銅製賞牌を受けた。
しかし、当時はまだ国内にビールの需要は少なく、事業は頓挫し、明治15年、一家3人で上京して出直すことになった。この上京が小蘋にとって転機となり、その後は博覧会や展覧会に出品し、日本美術協会展には毎年のように出品して受賞を重ね、東京画壇を代表する南画家として広く知られるようになった。
一方で、華族女学校(現在の学習院)で4年間教鞭をとり、その後も皇族や宮家の画学指導につとめ、多くの作品が皇族や華族に買い上げられるなど、上流階級と深い関わりを持つようになった。明治37年には、女性初の帝室技芸員に任命され、宮内省からの注文品を多く制作した。
また、明治40年の文展創設に際しては、第1回展から4回展まで審査員をつとめ、日本美術協会の顧問としても活躍し、明治期の代表的女性画家として、跡見花蹊、奥原晴湖とともに「明治の三大閨秀」と称されるようになった。
大正4年、大正天皇御即位式御大典における奉祝画屏風として「悠紀地方風俗歌屏風」を制作し上納したが、その疲労からか翌年病気になり、大正6年、71歳で死去した。
野口小蘋(1847-1917)のぐち・しょうひん
弘化4年大坂生まれ。漢方医・松邨春岱の長女。名は親、字は清婉。安政元年、四条派の石垣東山に師事し「玉山」と号した。元治2年日根対山に師事し、慶応4年頃までに京都に出て「小蘋」と号して画を生業とし、明治4年上京した。明治10年滋賀県蒲生郡の酒造業「十一屋」の長男・正章と結婚し、明治12年一家で醸造所と営業所のある甲府に移り住んだ。明治15年一家で上京、同年の第1回内国絵画共進会と、明治17年の第2回内国絵画共進会で褒状を受賞。その後も博覧会、展覧会で受賞を重ね、明治37年、帝室技芸員に任命された。明治40年の第1回文展から第4回展まで審査員をつとめた。大正6年、71歳で死去した。
野口小蕙(1878-1945)のぐち・しょうけい
明治11年滋賀県蒲生郡桜川村(現在の滋賀県東近江市)生まれ。野口小蘋の長女。本名は郁子。1歳の時に甲府に転居し、明治15年一家で上京した。母・小蘋に画を学び、明治25年日本美術協会展に初入選、以後明治37年まで毎回出品し、しばしば褒状を受賞し、明治32年、33年には宮内省に買い上げられ、明治37年には銅牌を受賞した。そのほか、日本画会展などに出品した。小室翠雲と結婚したが、のちに離婚した。昭和20年、68歳で死去した。
山梨(10)-画人伝・INDEX
文献:没後100年 野口小蘋展、山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨に眠る秘蔵の日本美術、山梨県立美術館蔵品総目録6 2008-2015、山梨県立美術館蔵品総目録5 2000-2007、山梨「人物」博物館 甲州を生きた273人