日本における近代洋画は、安政3(1856)年に幕府によって開設された蕃書調所(東京大学の前身)から始まったとされる。ここで絵図調出役をつとめていた川上冬崖(1827-1881)が、正式に洋画の研究を進め、さらに洋画の普及のために、明治2年に私塾・聴香読画館を開いた。この画塾で学んだ蕃所調所の後輩にあたる高橋由一や、小山正太郎、川村清雄、松岡寿、中丸精十郎らが中心になって日本の初期洋画が形成されていった。
そのひとりである中丸精十郎(1840-1895)は、甲府城下に生まれ、はじめ竹邨三陽の画塾で学び、のちに南画家を志して、三枝雲岱とともに京都の日根対山に師事した。対山没後は洋画を志して上京し、明治5年同郷の真下晩菘(1799-1875)の紹介で川上冬崖の画塾・聴香読画館に入った。
明治7年には陸軍省に出仕したが、その翌年には松田緑山が開いた石版印刷所・玄々堂で石井鼎湖、高橋由一らとともに石版画を研究し、『輿地誌略』の挿絵銅板や石版画を出版し、また、松田の弟子たちに絵を教えた。
明治9年、同年開校した工部美術学校に年齢を偽って入学、フォンタネージ、アッキレ・サン・ジョヴァンニの指導を受け、明治22年には日本最初の本格的洋画団体である明治美術会の設立に参加し、神田猿楽町の私塾では、大下藤次郎、藤島武二らを指導した。
明治28年、墓参りのため甲府に帰り、逗留先の大沢家当主夫妻の肖像画を制作していたが、その途中に56歳で死去した。
中丸精十郎(1840-1895)なかまる・せいじゅうろう
天保11年山梨県甲府市若松町生まれ。幼名は左一。別号は金峰。幼年期に満田篤斎の塾に通い、のちに甲府の竹邨三陽に学んだ。安政4年頃、京都に出て日根対山に師事し、慶応2年頃には播州林田の河野鉄兜にも師事した。鉄兜没後に一時甲府に戻り、明治5年洋画を志して上京し、川上冬崖の聴香読画館に入った。明治9年に開校した工部美術学校に年齢を偽って入学、フォンタネージ、アッキレ・サン・ジョヴァンニの指導を受け、明治15年まで在学したと思われる。明治22年には明治美術会の設立に参加した。神田猿楽町の私塾で大下藤次郎、藤島武二らを指導した。明治28年、56歳で死去した。
真下晩菘(1799-1875)ました・ばんすう
寛政11年山梨県東山梨郡大藤村中萩原(現在の塩山市中萩原)生まれ。名は専之丞。旧名は鶴田藤助と称し、維新後、一時益田姓を名乗り、一族にも改姓を勧めた。江戸に出て武士になり、幕府の学問所だった蕃書調所調役組頭勤方、陸軍奉行並支配などを歴任した。明治維新後は私塾を開き教育者として後進を育成した。明治8年、77歳で死去した。
山梨(09)-画人伝・INDEX
文献:中丸精十郎とその時代-日本洋画の源流、山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨県立美術館蔵品総目録5 2000-2007