甲府の医師の家に生まれた竹邨三陽(1799-1857)は、青年期に藩校で友野霞舟らから文人としての教養を受け、のちに尾張名古屋へ遊学して山本梅逸、中林竹洞に師事した。山梨の近代南画の先駆者として位置付けられており、当時山梨県内にいた南画家の多くが三陽の教えを受け、のちに洋画家となる中丸精十郎も三陽の画塾に学んでいる。
当時の三陽人気は絶大だったと思われ、嘉永元年に甲府一蓮寺で開催された三陽の改号を記念した「三陽改号記念書家会」には、約150名の協力者が名を連ね、別に幹事、執事が約90名にも及び、県下最大の書家会だったと伝わっている。
作品の現存例は少なく、掲載の「春暉暁艶図」のほかには、山梨県立博物館蔵「群鹿図屏風」などが知られる程度である。書籍としては、嘉永6年に刊行された『仙嶽闢路図』に挿絵を描いている。これは、昇仙峡への参詣道として天保14年に竣工した新道を題材にした画集で、友野霞舟、乙事完が詩文を担当している。
竹邨三陽(1799-1857)たけむら・さんよう
寛政11年生まれ。甲府横近習町の医師・竹邨立己の二男。名は亨、諱は泰。別号は雲麟。甲府学問所の徽典館で友野霞舟らに学び、のちに尾張名古屋で山本梅逸、中林竹洞に師事した。江戸、伊豆、長野、岐阜、愛知、京都と遊歴し、その後甲府に戻り、父の設立した私塾で絵画をはじめ、漢学や書道を庶民に教授したと思われる。門人に三枝雲岱、渡辺天麗、村田昆棟、斎藤渓雲、古屋栞雅、中丸精十郎らがいる。安政4年、58歳で死去した。
山梨(05)-画人伝・INDEX
文献:山梨の近代美術、山梨に眠る秘蔵の日本美術