山下守胤(1786-1869)は、富山城下平吹町の富山藩御用の染物紺屋の山下屋に生まれた。幼いころから画を好み、家業を継がずに森探玉斎について画を学び、のちに江戸に出て狩野派の画法を学んだ。帰郷後、10代藩主・前田利保に取り立てられ富山藩お抱え絵師となり、御用のかたわら利保に絵の指南もした。
藩主の前田利保(1800-1859)は、富山藩第8代藩主・前田利謙の子として江戸に生まれた。子どものころから植物好きで、下谷池之端の江戸藩邸の庭園では200種を超える蕣花(アサガオ)を栽培していたという。
天保6年、第9代藩主・前田利幹が病気で退いたため第10代藩主となり、藩政につとめるかたわら植物の研究にも熱心に取り組み、弘化3年に47歳で隠居した後は、庭園で珍しい植物を栽培したり、近臣たちと草木の品評会を催すなど本草の研究を続けた。
その集大成として、50代になってから94巻(56冊)からなる『本草通串』と、その図録である『本草通串証図』を編纂刊行した。『本草通串証図』には藩内の多様な植物図が掲載されており、その下絵は、守胤をはじめ、守胤の長男の山下弌胤、木村立嶽、松浦守美らが描いた。全181図のうち、守胤が57図と最も多く担当している。
山下守胤(1786-1869)やました・のりたね
天明6年富山城下平吹町生まれ。越中富山藩お抱え絵師。はじめ森探玉斎に画を学び、のちに江戸に出て狩野派の画法を学んだ。その後全国を漫遊して各地の景勝を探索したのち帰郷。帰郷後は富山藩10代藩主・前田利保に取り立てられ、利保に絵を指南し、藩士として徒組から新番組に登用された。獣鳥草花の写生画を得意とし、前田利保の編書『本草通串証図』にも挿絵を描いた。代表作に「越中八景図」などがある。俳諧も嗜んだ。明治2年、84歳で死去した。
前田利保(1800-1859)まえだ・としやす
天保6年江戸生まれ。富山藩第10代藩主。富山藩第8代藩主・前田利謙の子。字は伯衝、号は益斎。天保6年富山藩第9代藩主・前田利幹が病気で藩主を退いたため富山藩主となり、天保の飢饉への対応や異国船に備えた海岸防備、藩政改革などにつとめた。そのかたわら子どもの頃から好きだった植物の研究を続け、47歳で隠居して『本草通串』94巻(56冊)と、その図録である『本草通串証図』を編纂した。安政6年、60歳で死去した。
富山(03)-画人伝・INDEX
文献:本草通串証図、越中百年美術回顧展、とやま 版 越中版画から現代の版表現まで