戯画堂芦ゆき(不明-不明)は、はじめ有楽斎長秀に学び、のちに浅山芦国の門人になったとされる。春好斎北洲とともに上方浮世絵中期の前半を支えた代表的絵師のひとりで、文化10年頃から天保6年頃まで活動した。主に役者絵を描き、新しい試みとして背景に極端な遠近法を使用した作品や、掲載の「座附引合之図 二代目関三十郎」のような上方独自の顔見世行事を描いた役者絵も残っている。
芦ゆきの師・浅山芦国(不明-1818)は、大坂役者絵の創始期に松好斎半兵衛よりやや遅れて登場し、流光斎如圭、松好斎とは別の画系を形成した。流光斎、松好斎の役者似顔をさらに滑らかにした画風で描き、享和元年頃から文化年間の活動が確認できる。門下には、芦ゆきをはじめ、芦広、芦郷、芦舟、芦友、よし国らがおり、文政年間に上方役者絵の分野で活躍する絵師を多く輩出した。
戯画堂芦ゆき(不明-不明)ぎがどう・あしゆき
大坂の人。浅山芦国の門人とみられる。長国、芦幸、あし幸、芦ゆき、芦雪と称した。主に役者絵を描き、役者の表情やしぐさなどの大胆な表現に優れた手腕を発揮した。春好斎北洲に次いで、寿好堂よし国や丸丈斎国広らとともに文政年間の上方浮世絵の中心を担った。門人に幸国がいる。
浅山芦国(不明-1818or1820)あさやま・あしくに
安永初年生まれ。大坂の人。通称は布屋忠三郎。号は蘭英斎、狂画堂、青陽斎。須賀蘭林斎に画を学んで浅山蘭英斎と号し、のちに自ら狂画堂芦国と称した。三代目中村歌右衛門のひいきとして知られ、この役者を多く描いたほか、絵入根本の挿絵や劇場に掲げられた絵看板も手掛けた。文政元年あるいは文政3年に死去した。
芦広(不明-不明)あしひろ
大坂の人。文化13年から文政7年に作画した。浅山芦国の門から出た多くの寡作絵師のひとりで、画風は師の芦国や同時代に活躍した絵師たちに倣い、主に役者絵を描いた。
大阪(59)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、近世の大坂画壇、上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技