天明・寛政期の大坂南画壇は、福原五岳、木村蒹葭堂を中核として若手の画人たちが多数出現した。寛政2年版『浪華郷友録』によると、この頃の南画家としては、岡田米山人をはじめ、福原五岳の二人の子三洞、東岳、浜田杏堂、鼎春嶽、高嵩岳、藤九鸞らの名が記載されており、同書に記載されていない画人としては、森蘭斎、林閬苑、趙陶斎、十時梅厓、森川竹窓らがこの時期に活躍した。
そして文化・文政期となり全国的に南画全盛期を迎える頃になると、大坂南画壇の指導的役割はすでに重鎮的存在となっていた岡田米山人の手にゆだねられるようになる。
岡田米山人(1744-1820)は、大坂の人とされるが、現在の神戸市あるいは播磨出身との説もあり、前半生については不明である。安永の頃、30歳代に大坂の西天満寒山寺裏長池で米屋を営み、余技に画を描いて巷間に名を馳せた。
壮年期に津の藤堂藩大坂蔵屋敷の下役として仕え、邸内に移り住み画室「正帆」で作画活動を行なった。文化6年以前には藤堂藩を隠退し、天満の源八渡辺りに隠居した。75歳で妻を失ったが、その後の死没までの2年間、一層旺盛な作画活動を展開した。
岡田米山人(1744-1820)おかだ・べいさんじん
延享元年生まれ。名は国、字は士彦、通称は米屋彦兵衛、一説に彦吉。号は米山人、米翁。前半生は不明で、30歳代に大坂西天満寒山寺裏で米屋を営んだ。中年期に藤堂藩大坂蔵屋敷に伺候したが、文化6年以前に隠退し、天満の源八渡辺りに隠居した。田能村竹田、浦上玉堂らと交遊した。妻の死別した75歳時よりのちの最晩年2年間に傑作が多数みられる。文政3年、75歳で死去した。
大阪(31)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、大阪ゆかりの日本画家、近世の大阪画人、近世の大阪画人