林閬苑(不明-不明)は、福原五岳に学び、さらに堺の豪商宅の明画を臨摸し、写実的でプリミティブな独自の画風を確立したとされる。長崎派風の極彩色による美人画から水墨画まで縦横にこなし、その幅の広い奇矯な作風は京都の長沢蘆雪に似るとも評された。
自ら相国寺で作品調査を行ない、中国明代の林良らの画法に憧れていたという。鋭敏な頭脳を持ち、熱烈な中国趣味によって中国への渡航を求めたが許されず、39歳までに憤死したと伝わっている。
『要略』には岡本豊彦の話として「林閬苑は性が慧敏で、常に明人の画法を慕っていたが、和泉堺の豪族の家に多くの明画が収蔵されている事を聞いて臨摸させてもらい、遂に風趣を得た。特に美人を描くのに秀で、筆法繊細、賦彩鮮明で仇英画のようだった。一方、水墨の人物画を描いては剛勁で張平山の風があった。しかし惜しくも四十歳に満たずに没した」と記されている。
林閬苑(不明-不明)はやし(りん)・りょうえん(ろうえん)
大坂の人。名は新、又新。字は日新。俗称は秋蔵、閬蔵。号は閬苑、蟠龍洞。福原五岳に師事したとされる。また、堺の豪商宅の明画を臨摸して一家を成した。生没年は不明だが、寛保2年以後に生まれ、天明7年以前に39歳までに没したとされる。
大阪(27)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画