石嶺伝莫、上原真知に継いで、第二次派遣として1704年に福建省福州に留学したのが宮廷画家の山口宗季(1672-1743)である。福建省に滞在中は、中国伝統の写生画法を学び、4年間の留学を終えて帰国、その後は貝摺奉行者の絵師主取(絵画主任)に昇任し、社会的身分が高まるにつれ画家としての名声もあがり、琉球内だけでなく薩摩にもその名は伝わり、薩摩藩主・島津吉貴を介して京都の近衛家熙から花鳥画の依頼も受けている。
ほかにも、円覚寺の仏画の修復、尚豊王と尚質王の御後絵の制作など、幅広い活躍をした。また、それまで福建省からの輸入に頼っていた朱印肉の調製を中国留学中に学び、琉球内で製造することを可能にした。現存する作品は、大和文華館所蔵「花鳥図」、那覇市歴史博物館所蔵の「神猫図」などがある。
山口宗季(1672-1743)
1672(寛文12)年那覇の泉崎生まれ。唐名は呉師虔。山口宗未の長男。童名は思徳、字は子敬、号は雲谷。一時「宗」の字が禁字となり「保房」としたが、のちに許されたため改めて「宗季」を名乗った。20歳で画才を認められ、貝摺奉行所の絵師に抜擢された。1699年に筑登之、1703年には黄冠に叙され、同年32歳の時に王府より中国への留学を命じられた。福建省福州に滞在中は、孫億をはじめ、順梁亨、鄭大観に師事し4年間画技を磨き、秘伝書五巻を得た。4年間の留学を終えて1707年に帰国、1708年には那覇泉崎村から首里崎山村へ住居を移すことが許された。1710年に絵師主取に抜擢され、同時に今帰仁間切仲宗根地頭職となり、仲宗根親雲上を名乗ることになった。その名声は薩摩にも伝わり、1715年に薩摩藩主・島津吉貴を介して京都の近衛家熙に花鳥画を描いたほか、肝付主殿へ岩牡丹、白梅、紅梅の三幅対、島津備前に花鳥画を描いている。翌年には島津内膳の求めにより花鳥画一幅を描き、同年知念間切山口地頭職となり山口親雲上を称するようになった。1717年には円覚寺御照堂の御後絵を転写、1721年には円覚寺の仏画や尚豊王、尚質王の御後絵を制作、1730年には勝連間切神谷地頭職となり神谷親雲上と称した。1743年、72歳で死去した。
沖縄(3)-画人伝・INDEX
文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展