幕末から明治にかけて狩野派の系譜を継承した岡山の画家としては、狩野永朝(1831-1900)と日置雲外(1829-1918)がいる。狩野永朝は、京狩野九代狩野永岳の養子で、弘化年間に邑久郡虫明を訪れ、虫明焼の絵付けなどを行い、当地にとどまった。御用絵師ではなかったが、幕末から明治にかけて西大寺を本拠に活躍した。県下各所に作品が残っているが、特に住居に近かった池田家の菩提寺曹源寺には、ほぼ70点に及ぶ大量の「列祖像」や「蓬莱山図」などが残っている。日置雲外(1829-1918)は、江戸期の備前藩の家老で、御用絵師の長谷川勝厳に学んだらしく、花鳥画、特に鶴を得意とした。宮内省の技芸官を勤めたこともある。永朝、雲外ともに明清画の影響を強く受けており、純然とした狩野派とは言い難い。狩野派は江戸時代の終焉とともに衰退の一途をたどり、岡山でも二人を継ぐ画人は現れなかった。
狩野永朝(1831-1900)
天保2年京都生まれ。狩野山楽直系の九代狩野永岳の養子。字は白駒、通称は内記。父・永岳について学んだ。弘化年間に備前の伊木三猿斎に招かれて邑久郡虫明に来て虫明焼の絵付けなどをしていたが、安政年間には西大寺村に移り、田中守治治方に寄食して田中山雷と称したが、まもなく岡山に移って狩野姓にもどった。岡山と西大寺で門人を教え、山水、花鳥をよくした。明治33年、70歳で死去した。
日置雲外(1829-1918)
備前藩家老。名は忠尚、字は帯刀。画は長谷川勝厳に学んだと思われる。花鳥を得意とし、特に鶴を描いて評判を得て、「雲外さんの鶴」とよばれるほど有名だった。山水にも本格的な狩野派の作品が残っている。明治維新ののちは小橋町に住み、また東京に出て宮内省の技芸官もつとめた。晩年は吉備郡高松町に住み、悠々と画筆に親しんだ。大正7年、90歳で死去した。
岡山(5)-画人伝・INDEX
文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の絵画、岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典