雲華上人(1773-1850)は、姓を末広(弘)といい、豊前国中津の正行寺第十六世住職をつとめた僧である。江戸後期の東本願寺教学の最高学職である講師をつとめ全国を遊説する一方で、田能村竹田(1777-1835)をはじめ、頼山陽、浦上春琴、篠崎小竹ら同時代の文人たちと交流した。
竹田と上人は、同じ豊後岡藩に生まれた同郷であることから、特に親しく交遊していたとみられる。『雲華草』には雲華が竹田の居宅・竹田荘で詠んだ詩などがいくつか収録されており、竹田の日記や書簡資料からは、二人が京都で頻繁に会っていた様子がうかがえる。竹田より一足早く京都で文人たちと交流していた同郷の雲華は、竹田にとって頼りになる存在だったようである。
竹田が著した『竹田荘師友画録』によれば、雲華は酒を飲まず、煎茶を好み、また、こよなく蘭を愛したという。蘭を数多く栽培していて、中国産の素心蘭が長崎に着いたと聞けば、人をやって持ってこさせ、朝夕これに向かって愛玩し、そのそばで寝起きしたという。深く蘭の性質に精通していたため、心は蘭と一体化しており、蘭を描く時は、仰向けになったり、うつ伏せになったり、横向きになったりし、手のままに筆を走らせた。自然に出来上がったその画は、天真爛漫の赴きがあったという。
末広(弘)雲華(1773-1850)
安永2年豊後国岡藩竹田村生まれ。正行寺第十六世住職。満徳寺第十四世寺主・円寧の二男。名は信慶、または大含。別号に染香人、鴻雪斎がある。天明12年、12歳で実父円寧と死別して、父の兄である日田広円寺の円門法蘭師のもとで成長した。19歳の時に実姉の夫である中津正行寺に移った。筑前の亀井南冥、中津藩儒者の倉成龍渚に学んだ。嘉永3年、78歳で死去した。
大分(10)-画人伝・INDEX
文献:出光美術館研究紀要第14号「末弘雲華の画業について」、海路7号「末弘雲華上人の生涯」