釧雲泉(1759-1811)は、肥前島原藩士の子として島原(現在の長崎県雲仙市)に生まれ、幼くして長崎に学び、中国語にも通じ、中国古画に学んで山水画を得意とした。やがて故郷を離れて諸国を遊歴し、江戸、大坂、備中などを拠点として多くの文人と交友を持ったとされるが、その経歴については曖昧な点も多い。
越後を訪れたのは、文化3年とみられ、大窪詩仏ともに、高崎、安中、碓氷峠を越えて信濃川を下って越後に入っている。その後、一度江戸に戻ったとも考えられるが、文化5年には燕町(現在の燕市)の神保家で山水図屏風を描いており、越後にいたことが確認されている。その後も越後で多くの文人と交わり、越後に本格的な南画を伝えた。
越後で雲泉に教えを受けたものとしては、上記の神保家の神保柳波とその養子・杏村をはじめ、一ノ木戸村の行田八海、高田の倉石米山・乾山父子、新潟の石川侃斎、出雲崎の浄邦寺住職・菅泰峨らがいる。
文化8年、53歳の時、雲泉は江戸に帰る決意をし、知人にその旨を書き記した書簡を送っているが、同年11月、出雲崎のそば屋で酒を飲んでいる時に急死し、江戸に戻ることはかなわなかった。
釧雲泉(1759-1811)くしろ・うんせん
宝暦9年島原(現在の長崎県雲仙市)生まれ。肥前島原藩士の子。名は就、字は仲孚。別号に魯堂、岱岳、六石、磊々居士などがある。幼くして長崎に学び、中国人に中国語と画技を学んだと伝わっている。各地を遊歴し、江戸、大坂、備中などを拠点に多くの文人と交流した。文化3年大窪詩仏とともに上野、信濃を経て越後を訪れ多くの文人と交わり、大きな影響を与えた。文化8年、53歳で死去した。
神保柳波(1743?-1810)じんぼ・りゅうは
寛保3年頃蒲原郡燕町(現在の燕市)生まれ。通称は佐五右衛門。神保家は越後を訪れる文人墨客をもてなしていた素封家で、文化文政年間、この地の文墨界の中心的役割を果たした。良寛、有願をはじめ、多くの文人と交流した。文化7年、68歳で死去した。
神保杏村(1776?-1831)じんぼ・きょうそん
安永6年頃蒲原郡燕町(現在の燕市)生まれ。神保柳波の子。名は宣、字は士孝、子襄、通称は佐五右衛門。幼いころから父の指導を受け、巻菱湖に書を学び、釧雲泉に画を学んだ。良寛や巌田洲尾らと交流した。亀田鵬斎が文化7年から8年にかけて神保家に滞在し、辞するにあたり「留別之詩」を残し、その著書『亦安楽窩記』に神保家のことを記している。天保2年、56歳で死去した。
行田八海(1771-1818)なめた・はっかい
明和8年蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市神明町)生まれ。神明宮の宮司・行田正知の弟。名は正秀、諱は景愿、通称は恒蔵。出雲崎に滞在していた釧雲泉に師事して画を学んだ。文化8年に雲泉が出雲崎で客死した時には出雲崎の人々とともにその墓碑の建立に奔走した。その後江戸に出たが、文政元年病のため帰郷し、同年、48歳で死去した。
倉石米山(1769-1810)くらいし・べいざん
明和6年高田下小町(現在の上越市)生まれ。生家は「角の倉石」と呼ばれた豪商。名は秀、通称は甚助(世襲)。別号に南蘇、山骨がある。舷斎と釧雲泉に画を学び、山水画を得意とした。考古に興味を持ち、古代の石器や小銭などを収集していたという。文化7年、42歳で死去した。
倉石乾山(1799-1869)くらいし・けんざん
寛政11年高田下小町(現在の上越市)生まれ。倉石米山の長男。名は光雁、字は輝翅、通称は久吉、のちに甚助を襲名した。別号に楓石軒がある。幼いころから父に画を学び、のちに釧雲泉にも師事した。山水画を得意とし蘭竹も描いた。明治2年、71歳で死去した。
大瀧石山(不明-1867)おおたき・せきざん
頚城郡福島村(現在の上越市)生まれ。名は藤九郎。釧雲泉に師事して山水画を得意とした。倉石乾山、青木崑山とともに「頚城の三山」の一人と称された。慶応3年死去した。
菅泰峨(1777-1828)すげ・たいが
安永6年三島郡出雲崎町生まれ。出雲崎町の浄邦寺住職。法名は恵広。別号に対峨がある。弟に寺を任せ、諸国を巡って修行に励んだ。釧雲泉が出雲崎を訪れた際には浄邦寺に迎えて画を学んだ。文政11年、52歳で死去した。
藤井後村(不明-1828)ふじい・ごそん
蒲原郡燕町(現在の燕市)生まれ。諱は厚、字は鴨令、通称は甚左衛門。出雲崎に滞在していた釧雲泉に画を学び、山水画を得意とした。文政11年死去した。
上田旭山(不明-1843)うえだ・きょくざん
村上藩士の家に生まれた。諱は直氏、通称は慶右衛門、字は亀弌。別号に青松、南楽がある。藩の元方役だったが、出雲崎に滞在していた釧雲泉に画を学び、その後江戸に出て渡辺玄対、春木南湖・南溟父子に師事した。天保14年死去した。
大倉南岱(1810?-1864)おおくら・なんたい
文化7年頃蒲原郡亀田町(現在の新潟市)生まれ。名は武、のちに従之助。字は孟規、通称は市十郎。釧雲泉の画を見て影響を受け、地主の暮らしのなかで画に親しんだ。新潟の石川侃斎、大坂の魚住荊石、高田の倉石乾山らと親交があった。著書に『諸事覚書留帳』11巻がある。文久4年、京都において55歳で死去した。
新潟(04)-画人伝・INDEX
文献:新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、久比岐野画人展-地元で活躍した美の先駆者たち-、越佐書画名鑑 第2版