画人伝・長崎

南蛮美術と長崎の南蛮絵師

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伝山田右衛門作

天文12年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、続く天文18年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた。この時に来日したポルトガル人やスペイン人を総称して南蛮人と呼び、彼らがもたらした西洋文化に刺激されて形成された異国情緒豊かな美術を南蛮美術と称した。

多彩な南蛮美術が発達した長崎に初めて西洋画を伝えたのは、キリスト教布教のために長崎を訪れた宣教師たちだった。彼らは、布教活動のために西洋技法で描かれた聖母子像を持ち込み、その絵画を求めてキリスト教信者が殺到した。信者は急増し、ヨーロッパから持ち込まれる聖母子像だけではその要求を満たすことができず、その不足を補うために、セミナリヨやコレジヨなどのほかに、絵画や銅版画などの技法を教育する施設として画学舎が設置され、ここで教育を受けた日本人画家たちによって宗教画が盛んに制作されるようになった。

画学舎で教育にあたったのは、天正11年に来日したイタリア人画家、ジョヴァンニ・ニコラオで、このニコラオの指導のもと、画学舎で制作されたものに「泰西王侯図屏風」がある。この図は、他の王侯図などの西洋風俗図と同様に「古代ローマ皇帝図集」などを参考にして制作されたとみられる。画学舎で学んだ南蛮絵師としては、ヤコブ・ニワ、レオナルド木村、山田右衛門作、生島三郎左衛門らがいる。

山田右衛門作(1575-1657)
天正3年頃生まれ。有馬直純に仕え、口之津村大屋に住んでいた。幼児の頃に洗礼を受けたキリシタンだった。慶長時代に当時有馬地方にあったイエズス会の学院で西洋画法を学んだ。寛永14年島原の乱では反乱軍の天草四郎の側近部将をつとめ、原城に立てこもり、落城の際には唯一の生存者となった。落城後は松平信綱に随伴して江戸に赴き、キリシタン目明しとなり、罪人処刑の模様などを洋風の画法で描いたという。のちに再びキリシタン信仰を教布して終身禁錮刑となったが、晩年許されて長崎へ帰り、明暦3年、八十余歳で死去したとされる。

生島三郎左衛門(不明-不明)

山田右衛門作と同時代の画人と思われる。『先民傳』によると、少年の頃、薩摩に行って南蛮人に西洋画法を学んだとされる。また、弟の藤七は螺鈿を得意とし、弟子の野澤久右衛門は螺鈿をよくし、絵事も得意だったとも記されている。『長崎夜話草』によれば、藤七は、濱田彌兵衛について眼鏡の製法を学んだとされる。その後の生島三郎左衛門の画系は明らかになっていない。

文献:原色日本の美術 20 南蛮美術と洋風画、長崎の美術-300年展、南蛮絵師・山田右衛門作、長崎絵画全史

探訪大航海時代の日本〈7〉南蛮文化 (1979年)
小学館







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